フランク・マホブリッチ
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| フランク・マホブリッチ | |
|---|---|
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1963年 | |
| 本名 | フランシス・ウィリアム・マホブリッチ |
| 原語名 | Francis William Mahovlich |
| 愛称 | ビッグM、モーゼス |
| 生誕 |
1938年1月10日(88歳) ティミンズ |
| 身長 | 6 ft 1 in (1.85 m) |
| 体重 | 205 lb (93 kg; 14 st 9 lb) |
| ポジション | 左ウィング |
| シュート | 左打ち |
| 所属したチーム |
トロント・メープルリーフス デトロイト・レッドウィングス モントリオール・カナディアンズ トロント・トロス バーミンガム・ブルズ |
| 代表 |
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| プロ選手期間 | 1957年 – 1978年 |
| 1981年殿堂入り | |
| フランク・マホブリッチ | |
|---|---|
| 所属政党 | カナダ自由党 |
| 在任期間 | 1998年6月11日 - 2013年1月10日 |
| カナダ総督 | Roméo LeBlanc |
フランク・マホブリッチ(英語: Frank Mahovlich CM, 1938年1月10日 - )は、カナダ連邦オンタリオ州ティミンズ生まれの元プロアイスホッケー選手、カナダ上院議員。ポジションは左ウィング。
オンタリオホッケー協会のトロント・セントマイケルズで17歳の時に24ゴール、翌シーズンは49試合で52ゴールを決め、リーグ最優秀選手に贈られるレッド・ティルソン・トロフィーを受賞した。トロント・メープルリーフスは支配的な潜在能力の可能性を感じ、ジュニア資格が1年残っていたマホブリッチをNHLに昇格させた。
NHLでの初のフルシーズンとなった1957-58シーズンは、堅実なプレーで20ゴール36ポイントを挙げ、同じ左ウィング同期のボビー・ハルを抑え、ベストルーキーに贈られるカルダー記念賞を獲得した。
次の2シーズンも20ゴール前後で推移し、1960-61シーズンには誰もが期待していた輝きを見せ始めた。レッド・ケリーとボブ・ネヴィンと同じラインに配置された23歳のマホブリッチは好調なスタートを切り、ほとんどの期間でリーグの得点王となり、残り14試合で48ゴールを挙げた。モーリス・リシャールの記録50ゴールを射程圏内におさめたかのように見えたが、最後の2ゴールは生まれず、そのシーズンにバーニー・ジョフリオンが史上2人目の50ゴールを記録した。
メープルリーフスは1962年から3年連続でスタンレーカップを獲得し、マホブリッチは年間平均30ゴール以上を記録して、1960年代のメープルリーフス王朝を支えたが、ホームの観客の前でプレーする度に多くの批判とブーイングの的となり、1964年には急性の緊張とうつ病で入院した。
メープルリーフス最後のスタンレーカップ優勝の年である1966-67シーズンには得点数が18に減少し、1967年11月1日にモントリオール・カナディアンズと対戦した翌日、マホブリッチはすぐにトロント総合病院の精神科で治療を受けた。多くの報告によれば、彼は深いうつ状態にあり、神経衰弱を起こしていたとされる。
マホブリッチは1か月以上を経て11試合を欠場した後、ホームでのカナディアンズ戦で復帰しアシストを決めたが、シーズン終盤にデトロイト・レッドウィングスにトレードされた。トロントでのプレッシャーや対立から解放されたマホブリッチは再生し、1968-69シーズンには49ゴール、ラインを組んだゴーディ・ハウは103ポイント、アレックス・デルベッキオは83ポイントで各々がキャリアハイの成績を残し、プロダクションラインIIIと称された。
1971年1月に、カップ戦に向けて準備を進めていたモントリオール・カナディアンズにトレードされたマホブリッチは、プレーオフトップの14ゴール27ポイントを挙げ、ペナルティーキルでも重用され、その年のチームのスタンレーカップを獲得に貢献した。1971-72シーズンはキャリアハイの96ポイントを獲得し、1972年のサミットシリーズでソ連代表と対戦したカナダ代表の一員となった。1973年のプレーオフで再び素晴らしい活躍を見せ、最後のスタンレーカップを獲得した。
1973年3月21日、バンクーバー・カナックス戦でNHL史上5人目となる通算500ゴール目を挙げた。[1]

(トロント・トロス)
36歳のマホブリッチはWHAのトロント・トロスと高額の4年契約を結び、リーグ屈指の得点力を誇ったが、トロスは2シーズン後にアメリカ南部のバーミングハムに移転し、そこでは映画スラップショットに出演したハンソン兄弟の一人であるデイブ・ハンソンと共にラインを組んでプレーした。
4年契約終了後に40歳で現役を終え、1979年10月7日に正式に引退した。
1981年にホッケーの殿堂入りを果たし、1994年にはカナダ勲章メンバーに叙せられ、1998年には氷上内外での長年の功績を称えられ、ジャン・クレティエン首相によりカナダ上院議員に選出された。