フランシスコ・ピント・バルセマン
From Wikipedia, the free encyclopedia
フランシスコ・ピント・バルセマンは、1937年9月1日にブラジル皇帝ペドロ1世の子孫としてリスボンにて生誕した。一家のルーツはグアルダにある[1]。リスボン大学で学位を取得した後は雑誌社と新聞社でジャーナリストとして長く勤めて[1]、その後は政治家への道を進み始めた。1969年から1973年までは国会議員を務め、4月25日革命以前の国会における若手自由主義者グループの1人であった[1]。1974年、首相経験者2人と5人の国会議員とともに社会民主党を創設した[1]。そのなか、創設者の1人、フランシスコ・サ・カルネイロ元首相が1980年12月4日に飛行機事故で死去すると社会民主党は後継にピント・バルセマンが選出され、社会民主党党首として政界で活躍した。その後様々な政党からの支援を受けて第111代ポルトガル首相に就任した。
首相時代

4月25日革命からまだ10年も経っておらず政治が不安定な状況下で就任し、つなぎ役として政権維持を試みた。また深刻な経済危機などにも直面し、財政再建を試みたが効果は一時的であった。1982年にはアメリカ合衆国を訪問し、当時のロナルド・レーガン大統領との会談を実現させた。西欧諸国との関係強化も行い外交的に孤立しない体制をかためさせた首相でまた欧州共同体への加盟への道筋をつけた人物としても知られている。その後は後任のアニーバル・カヴァコ・シルヴァによって実現した。しかし、与党内の分裂と政治的支持の喪失により議会からの支持を得られなくなり自ら辞任を表明して辞任した。