フランシス・ニーダム (第3代キルモリー伯爵)

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バニティ・フェア』1876年10月28日号におけるカリカチュアレスリー・ウォード画。

第3代キルモリー伯爵フランシス・チャールズ・ニーダムFrancis Charles Needham, 3rd Earl of Kilmorey KP1842年8月2日1915年7月28日)は、アイルランド貴族アイルランド保守党英語版に属し、庶民院議員[1]、アイルランド貴族代表議員を務めた[2]

1851年から1880年までニューリー=モーン子爵儀礼称号を使用した[2]

ニューリー子爵フランシス・ニーダム英語版(1815年2月2日 – 1851年5月6日、第2代キルモリー伯爵フランシス・ニーダム英語版の息子)と妻アン・アミーリア(1819年12月7日 – 1900年1月6日、サー・チャールズ・コルヴィル英語版の娘)の息子として、1842年8月3日にメイフェアブルートン・ストリート英語版で生まれた[2]。1855年から1860年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1860年5月31日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1864年にB.A.、1867年にM.A.の学位を修得した[3]

1865年6月10日、ノース・シュロップシャー・ヨーマンリー騎兵連隊英語版コルネット英語版(騎兵少尉)に任命され[4]、1871年4月22日に大尉に昇進した[5]。連隊がシュロップシャー・ヨーマンリー騎兵連隊に統合された後、1882年11月4日に少佐[6]、1889年4月13日に中佐に昇進した[7]。1896年12月16日にヨーマンリー連隊から辞任した[8]。1901年3月20日、ヨーマンリー連隊における国王の定員外エー=ド=カン英語版(副官)に任命された[9]

1871年、ダウン県長官英語版を務めた[2]。ほかにシュロップシャーダウン県アーマー県治安判事副統監を務めた[10]

1868年イギリス総選挙アイルランド保守党英語版の候補としてニューリー選挙区英語版(1人区)から出馬したが、379票対387票で自由党ウィリアム・カーク英語版に敗れた[1]。しかし1870年にカークが死去、1871年1月の補欠選挙にて無投票で庶民院議員に当選した[1]。その後、1874年イギリス総選挙で再選を目指したが、455票対459票で自由党候補に敗れた[1]

1880年6月26日に祖父が死去すると、キルモリー伯爵位を継承した[2]。1881年12月31日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1915年に死去するまで務めた[11]。1890年5月24日、聖パトリック勲章を授与された[2]

1883年時点でダウン県に40,902エーカーアーマー県に3,061エーカー、チェシャーに5,453エーカー、シュロップシャーに2,921エーカー、フリントシャーに32エーカー、ミドルセックスに43エーカーの領地を所有し、合計で年収34,022ポンドに相当したが、チェシャーとシュロップシャーの領地は1884年に売却された[2]

1915年7月28日、胸膜炎肺炎によりメイフェアのアルフォード・ストリート(Alford Street)5号で死去、31日にダウン県キルキール英語版で埋葬された[2]。長男フランシス・チャールズ・アデルバート・ヘンリーが爵位を継承した[2]

家族

出典

外部リンク

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