フランシス・ニーダム (第3代キルモリー伯爵)
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ニューリー子爵フランシス・ニーダム(1815年2月2日 – 1851年5月6日、第2代キルモリー伯爵フランシス・ニーダムの息子)と妻アン・アミーリア(1819年12月7日 – 1900年1月6日、サー・チャールズ・コルヴィルの娘)の息子として、1842年8月3日にメイフェアのブルートン・ストリートで生まれた[2]。1855年から1860年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1860年5月31日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1864年にB.A.、1867年にM.A.の学位を修得した[3]。
1865年6月10日、ノース・シュロップシャー・ヨーマンリー騎兵連隊のコルネット(騎兵少尉)に任命され[4]、1871年4月22日に大尉に昇進した[5]。連隊がシュロップシャー・ヨーマンリー騎兵連隊に統合された後、1882年11月4日に少佐[6]、1889年4月13日に中佐に昇進した[7]。1896年12月16日にヨーマンリー連隊から辞任した[8]。1901年3月20日、ヨーマンリー連隊における国王の定員外エー=ド=カン(副官)に任命された[9]。
1871年、ダウン県長官を務めた[2]。ほかにシュロップシャー、ダウン県、アーマー県の治安判事と副統監を務めた[10]。
1868年イギリス総選挙でアイルランド保守党の候補としてニューリー選挙区(1人区)から出馬したが、379票対387票で自由党のウィリアム・カークに敗れた[1]。しかし1870年にカークが死去、1871年1月の補欠選挙にて無投票で庶民院議員に当選した[1]。その後、1874年イギリス総選挙で再選を目指したが、455票対459票で自由党候補に敗れた[1]。
1880年6月26日に祖父が死去すると、キルモリー伯爵位を継承した[2]。1881年12月31日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1915年に死去するまで務めた[11]。1890年5月24日、聖パトリック勲章を授与された[2]。
1883年時点でダウン県に40,902エーカー、アーマー県に3,061エーカー、チェシャーに5,453エーカー、シュロップシャーに2,921エーカー、フリントシャーに32エーカー、ミドルセックスに43エーカーの領地を所有し、合計で年収34,022ポンドに相当したが、チェシャーとシュロップシャーの領地は1884年に売却された[2]。
1915年7月28日、胸膜炎と肺炎によりメイフェアのアルフォード・ストリート(Alford Street)5号で死去、31日にダウン県キルキールで埋葬された[2]。長男フランシス・チャールズ・アデルバート・ヘンリーが爵位を継承した[2]。

