フリードリヒ3世 (ニュルンベルク城伯)
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| フリードリヒ3世 Friedrich III. | |
|---|---|
| ニュルンベルク城伯 | |
| 在位 | 1260/61年 - 1297年 |
| 出生 |
1220年頃 |
| 死去 |
1297年8月14日 ニュルンベルク城伯領、カードルツブルク |
| 配偶者 | エリーザベト・フォン・メラニエン |
| ヘレーネ・フォン・ザクセン | |
| 子女 | 一覧参照 |
| 家名 | ホーエンツォレルン家 |
| 父親 | ニュルンベルク城伯コンラート1世 |
| 母親 | アーデルハイト・フォン・フロンテンハウゼン |
フリードリヒ3世(Friedrich III., 1220年頃 - 1297年8月14日)は、ホーエンツォレルン家出身のニュルンベルク城伯(在位:1260年/1261年 - 1297年)。相続伯(der Erber)とも呼ばれる。
歴代ニュルンベルク城伯が行ってきた教会への領土寄進を減らし、財産を蓄えて周辺の領地を買い上げた結果、領土拡大に成功した[1]。大空位時代の神聖ローマ帝国において、ボヘミア王オタカル2世がローマ王即位を辞退した後、シュタウフェン家のコンラディンを支持し、その死後は知り合いのハプスブルク伯ルドルフ1世のローマ王選出を後援した[1]。この政策の目的は領地の女子継承を認めさせることにあり、ルドルフ1世が特許状をもって認めたが、最終的には再婚相手との間で男子が生まれた[1]。
ニュルンベルク城伯コンラート1世の息子として生まれた[1]。出生について不明な点が多く、『ドイツ人名事典』(1878年)では生年が1218年ごろ、母がクレメンティナ・フォン・ハプスブルク(Clementia von Habsburg)[1]、『新ドイツ人名事典』(1961年)では生年が1225年ごろとし、母が不明であるとした[2]。父の存命中よりニュルンベルク西部カードルツブルク周辺の領地統治に関わっており、1261年に父が死去すると正式にニュルンベルク城伯位を継承した[1][2]。一方、弟コンラート3世はホーエンツォレルン家の私有財産を共同で相続した程度であり、城伯にはならなかった[1]。コンラート3世は教会に多額の寄付をして、息子3人を全員聖職者として育てたため、次代で子孫が断絶している[1]。
フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国での職務に関わる一方、自身の領土拡大も図り、1246年にメラーン公オットー1世の娘エリーザベトと結婚した[1]。1248年にエリーザベトの兄弟オットー2世が死去すると、メラーン公家(アンデクス家)の男系男子が断絶し、フリードリヒ3世は遺産相続をめぐる争いに巻き込まれた[1]。この争いは1255年1月に決着し、フリードリヒ3世はバイロイト周辺地域(アンデクス伯領)を相続した[1]。しかしエリーザベトとの間の息子2人が早世したため、フリードリヒ3世は娘たちにも相続権が認められるよう奔走した[1]。
神聖ローマ皇帝コンラート4世(シュタウフェン家出身)の死後、帝国は大空位時代に突入し、選帝侯の中には外国人をローマ王に推す動きがあった[1]。これに対し、フリードリヒ3世はほかの諸侯とともにボヘミア王オタカル2世(シュタウフェン家の女系子孫)を支持し、オタカル2世がローマ王即位を拒否すると代わりにコンラート4世の息子コンラディンを支持し、上バイエルン公ルートヴィヒ2世をその後援者として承認した[1]。コンラディンはフリードリヒ3世の支持を感謝し、イタリア遠征直前の1266年5月28日にニュルンベルク城伯領カードルツブルクを訪れ、男子継承者がいない場合にフリードリヒ3世の長女マリアに継承権を認めると宣言したが、コンラディンがイタリアで敗死したため無意味になった[1]。
フリードリヒ3世は次に1242年より知り合っていたハプスブルク伯ルドルフ1世の選出を支持し、1273年ローマ王選挙でマインツ大司教ヴェルナー・フォン・エップシュタインとともに選帝侯たちを説得した[1]。ルドルフ1世がローマ王に選出されると、フリードリヒ3世は1273年9月21日にバーゼル司教ハインリヒ・フォン・ノイエンブルクとの争いによりバーゼル近くの軍営に滞在していたルドルフ1世を訪れ、ローマ王選出の報せをもたらした[1]。翌日にルドルフ1世がバーゼル司教と和解すると、フリードリヒ3世はルドルフ1世とともにアーヘンに向かい、10月24日のローマ王戴冠式に出席した[1]。その翌日、ルドルフ1世は特許状をもってフリードリヒ3世の娘たちに継承権を認めた[1]。
ルドルフ1世の即位以降、フリードリヒ3世はルドルフ1世の代表や交渉役として活躍し、1274年4月に教皇グレゴリウス10世からルドルフ1世のローマ王即位承認を勝ち取り、1276年にルドルフ1世とオタカル2世の間で戦争が勃発したときにはルートヴィヒ2世とその弟にあたる下バイエルン公ハインリヒ13世を一時的ながら和解させ、ハインリヒ13世をルドルフ1世側に引き込んだ[1]。1278年8月26日にルドルフ1世がオタカル2世を討ち取ったマルヒフェルトの戦いにも自ら参戦しており、戦後には選帝侯たちを説得し、ルドルフ1世の息子アルブレヒト1世とルドルフ2世のオーストリア公即位を認めさせた[1]。
ルドルフ1世の死後、ルドルフ1世の娘婿にあたるルートヴィヒ2世とボヘミア王ヴァーツラフ2世(オタカル2世の息子)の間の不和を調停した[1]。またアルブレヒト1世のローマ王選出に尽力したが失敗し、ナッサウ伯アドルフが選出された[1]。アドルフはフリードリヒ3世に封土を与え、自身の親族ナッサウ=ハダマル伯エミッヒ1世をフリードリヒ3世の娘アンナと結婚させるなど懐柔を試みたが、フリードリヒ3世が再び帝国の統治に参画することはなかった[1]。
領地管理では財産を蓄えて周辺の領地を買い上げて、マイン川上流やフィヒテル山地で領地を獲得し、宗教政策では教会への領地寄進を制限した一方コンベンツァル聖フランシスコ修道会を後援し、領土拡大に成功している[1][2]。一方で対外政策を左右した娘の継承権問題は1275年ごろの再婚によりヨハン1世とフリードリヒ4世が生まれ、娘が継承する事態は生じなかった[1]。
1297年8月15日に死去した[1]。一旦はヨハン1世が家督を継いだが、1300年にはヨハンも亡くなり、フリードリヒ4世に引き継がれた。
子女
1246年にアンデクス伯オットー1世の娘エリーザベト・フォン・メラニエン(1272年12月18日没)と結婚、5人の子を儲けた。
- ヨハン(? - 1261年/1262年没) - ニュルンベルク近郊で猟犬に襲われて死亡した
- ジークムント(? - 1261年/1262年没) - ニュルンベルク近郊で猟犬に襲われて死亡した
- マリア(? - 1298年没) - ルートヴィヒ5世・フォン・エッティンゲン妃
- アーデルハイト(? - 1306年頃没) - ハインリヒ2世・ツー・カステル妃
- エリーザベト(? - 1288年頃没) - ゴットフリート1世・フォン・ホーエンローエ妃
1275年にザクセン公アルブレヒト1世の娘ヘレーネ・フォン・ザクセン(1247年 - 1309年)と再婚、3人の子を儲けた。