ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)

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ルートヴィヒ2世Ludwig II., 1229年4月13日 - 1294年2月2日)は、上バイエルン公ライン宮中伯厳格公der Strenge)の渾名を持つ[1]下バイエルン公ハインリヒ13世の兄[1]。後に神聖ローマ皇帝となるルートヴィヒ4世の父。

ホーエンシュタウフェン朝の継承者コンラディンの後見人を務め、そのシチリア遠征に莫大な援助をしたため、コンラディンの死後に遺領の一部を継承した[1]。1273年にハプスブルク家出身のローマ王ルドルフ1世の娘と結婚し、以降常にルドルフ1世を支持した[1]。1255年に弟とバイエルン公国を分割し、以降2人は不仲になった[1]。『ドイツ人名事典英語版』は公国の分割とルドルフ1世との同盟によりバイエルンの利益が損なわれたと評した[1]

バイエルン公ライン宮中伯オットー2世と妻アグネス(ライン宮中伯ハインリヒ5世の娘)の息子として、ハイデルベルクで生まれた[1]ホーエンシュタウフェン朝に従い、1246年にローマ王コンラート4世を助けてテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペと戦った[1]。1247年にコンラート・フォン・ヴァッサーブルクロシア語版と戦って撃破し、1250年にはオーストリアにおける帝国摂政英語版に任命された父オットー2世に対し臣従を拒否したミニステリアーレとも戦った[1]。このとき、エンス川流域とリンツ周辺の城塞をいくつか包囲したが、最終的には金銭をもって一時的に臣従させた[1]。またレーゲンスブルク司教英語版アルブレヒト1世・フォン・ピーテンガウ英語版との戦争では1251年にタイスバッハ英語版城を夜襲して落とした[1]

1253年11月29日に父が急死すると、弟ハインリヒ13世とともに父の遺領を相続した[1]。レーゲンスブルク司教聖務禁止令英語版を下したこともあり、即位にあたっての急務は司教との講和で、遺領相続と同月のうちに達成した[1]ザルツブルク大司教フィリップ・フォン・シュパンハイム英語版との講和もすぐに成立した[1]。しかし、ルートヴィヒ2世はハインリヒ13世と仲違いしてしまい、1255年の復活祭頃に領土を分割、下バイエルンは弟ハインリヒ13世が、ライン宮中伯および上バイエルンはルートヴィヒ2世が領有した[1]。『ドイツ人名事典英語版』はこの分割を帝国法に違反するうえ、ヴィッテルスバッハ家およびバイエルン公領を修復できないほどに弱体化させたと評した[1]。上バイエルン公となったルートヴィヒ2世は1256年10月までにライン都市同盟に加盟した[1]

この時期、神聖ローマ帝国ではコンラート4世が死去して大空位時代に入っており、ルートヴィヒ2世はホーエンシュタウフェン朝の継承者で姉エリーザベトの息子にあたるコンラディンの後見人になり、コンラディンをバイエルンの宮廷で育てた[1]。ルートヴィヒ2世はコンラディンのシチリア王国シュヴァーベン公国に対する権利を主張し、教皇アレクサンデル4世との交渉を続けたが失敗した[1]。その後、ローマ王ヴィルヘルム・フォン・ホラントが死去すると、ルートヴィヒ2世ははじめ1257年ローマ王選挙英語版でコンラディンを支持しようとしたが、コンラディンが当選しそうもないことがわかると、1256年11月にコーンウォール伯リチャードの代表エノー伯ジャン1世バッハラッハの近くのフュルステンベルク城英語版に迎え入れた[1]。そして、ルートヴィヒ2世は説得を受けて、コーンウォール伯を支持し、コーンウォール伯の娘またはと結婚することに同意し、その代償としてコーンウォール伯はローマ王に選出された場合、ルートヴィヒ2世に12,000マルクを支払い、コンラディンのシチリア王位主張に反対せず、シュヴァーベン公国に対する権利を保護するものとした[1]。こうして、ルートヴィヒ2世の支持を得たコーンウォール伯はローマ王に選出された[1]。その後、1261年5月8日にコンラディンの叔父にあたるシチリア王マンフレートをコンラディンの敵であると宣言した[1]

一方、ヴィッテルスバッハ家の弱体化を見たボヘミア王オタカル2世は1257年にバイエルンに遠征したが、ルートヴィヒ2世はライン宮中伯領から駆けつけ、ハインリヒ13世と協力してボヘミア軍を撃退した[1]。オタカル2世は撤退したが、ミュールドルフ・アム・イン英語版の近くでイン川を渡るときに橋が崩れたため多くの損害を出した[1]。また、『ドイツ人名事典』はルートヴィヒ2世がミュールドルフの近くで敵軍が塔に逃げ込んだところを見ると、塔に火を放ったという出来事から、ルートヴィヒ2世が短期で残虐な性格であり、後世の歴史家がつけた「厳格公」(der Strenge)の渾名が不適切であると評した[1]

オタカル2世を撃退した後、ハインリヒ13世はルートヴィヒ2世にライン宮中伯位を譲ったことを悔い、2人の間で不和が生じた[1]。1262年1月の仲裁裁判でハインリヒ13世の領土主張が退けられたものの、2人は以降も不仲のままとなった[1]。たとえば、ザルツブルク大司教位をめぐってフィリップ・フォン・シュパンハイム英語版ウルリヒ・フォン・ゼッカウ英語版が争ったとき、ルートヴィヒ2世がフィリップを、ハインリヒ13世がウルリヒを支持した[1]。1266年にオタカル2世とザルツブルク大司教ラディスラウス・フォン・シュレージエン英語版が下バイエルンに侵攻したときもルートヴィヒ2世が援軍を出さなかった[1]。もっとも、『ドイツ人名事典』は1260年にルートヴィヒ2世が再婚しており、その再婚相手がオタカル2世の縁戚だったことから、オタカル2世が再婚を手配して、ルートヴィヒ2世を味方に引き入れたと推測した[1]

ルートヴィヒ2世自身も戦争に忙殺されていた。ルートヴィヒ2世が上バイエルンと同じくライン都市同盟に加入していたレーゲンスブルク市に対し、その直近にガイアースベルク城(Geiersberg)を建て、同じくレーゲンスブルクの近くにあるヘフリンク城英語版を占領したため、レーゲンスブルクが反乱を起こした[1]。この戦争はお互いに多くの損害が出て痛み分けに終わり、ルートヴィヒ2世は1259年3月3日の和約でガイアースベルク城の解体とヘフリンク城からの退去に同意した[1]。一方、ヴォルムス司教英語版エーバーハルト1世ドイツ語版との戦争には勝利し、1261年11月の和約でノイシュタット・アン・デア・ハルトを割譲させ、ネッカラウドイツ語版を封土として獲得した[1]ケルン大司教エンゲルベルト2世・フォン・ファルケンブルクドイツ語版とも一時は争ったが、1262年7月1日に同盟を締結した[1]

1262年にコンラディンがシュヴァーベン公に即位し、後見人の座もルートヴィヒ2世からコンスタンス司教ドイツ語版エーバーハルト2世・フォン・ヴァルトブルクドイツ語版に譲られたものの、コンラディンは1263年4月に自身が子女のないまま死去した場合、ルートヴィヒ2世が遺領を相続すると宣言した[1]。1266年にシチリア王マンフレートが戦死した後、コンラディンはルートヴィヒ2世の助言を容れてシチリアへの遠征を決意した[1]。コンラディンが出発したとき、ルートヴィヒ2世は随行したが、道中のヴェローナで情勢不利を悟り、引き返すべきとコンラディンに助言した[1]。コンラディンが助言を聞き入れずに進軍を続けると、ルートヴィヒ2世は遠征軍から離脱、コンラディンはその後敗死した[1]。ルートヴィヒ2世はコンラディンの遠征に莫大な援助をしており、教皇クレメンス4世破門された(1273年7月に解除)が、この援助は領土を担保にしたものであり、ルートヴィヒ2世は広大な領土を手に入れることとなった[1]

ローマ王リチャードとは一時関係が疎遠になったが、1269年4月のヴォルムス帝国議会には出席した[1]。リチャードの死後に1273年ローマ王選挙英語版が行われ、ルートヴィヒ2世は同じくホーエンシュタウフェン朝を支持したマインツ大司教ヴェルナー・フォン・エップシュタインドイツ語版とともに、まずは自身の家系、すなわちヴィッテルスバッハ家の人物を選ぼうとした[1]。しかしケルン大司教エンゲルベルト2世・フォン・ファルケンブルクドイツ語版トリーア大司教ハインリヒ2世・フォン・フィンスティンゲンドイツ語版もルートヴィヒ2世の意見を支持しなかったため、ヴェルナーとルートヴィヒ2世は1273年9月1日にアンハルト=ツェルプストジークフリート1世英語版ハプスブルク伯ルドルフ1世を選ぶことで合意した[1]選帝侯たちは最終的にルドルフ1世をローマ王に選出した[1]。ルドルフ1世はさらに娘マティルデをルートヴィヒ2世に嫁がせ、2人はルドルフ1世のローマ王戴冠式と同日(1273年10月24日)に結婚した[1]

ルドルフ1世はルートヴィヒ2世によるコンラディンの遺領継承を承認し、1275年10月にルドルフ1世がローザンヌで教皇グレゴリウス10世と会談したときもルートヴィヒ2世が同行した[1]。このとき、ルドルフ1世もルートヴィヒ2世もグレゴリウス10世の求めに応じて、十字軍遠征を約束したが、結局実現することはなかった[1]。またルドルフ1世の提案により、グレゴリウス10世がバイエルンに教皇使節を派遣し、ルートヴィヒ2世とハインリヒ13世の和解を試みたが、失敗している[1]。ルートヴィヒ2世はバーデン辺境伯ルドルフ1世英語版との戦争でもローマ王ルドルフ1世を支持した[1]

ルドルフ1世とオタカル2世の政争をめぐってもルドルフ1世側に立ち、ライン宮中伯としてオタカル2世に出頭を命じた[1]。オタカル2世が出頭せず、ルドルフ1世が諸侯を率いて征討に向かうと、ルートヴィヒ2世はクロスターノイブルクを占領して、ボヘミア軍のドナウ川渡河を阻止した[1]。オタカル2世が降伏すると、ルートヴィヒ2世は仲裁役の1人になり、オーストリアの返還とボヘミアとモラヴィアの授封を決定した[1]。オタカル2世は1278年に再び挙兵したが、マルヒフェルトの戦いで戦死した[1]。ルートヴィヒ2世はこのときもライン宮中伯領から駆けつけようとしたが、マルヒフェルトの戦いで大勢が決したときはエンス川に到着した程度であり、加勢には間に合わなかった[1]

1281年6月、ルートヴィヒ2世はハインリヒ13世とともにルドルフ1世によるブランデンブルク辺境伯オットー5世への攻撃に加勢したが、最終的には仲介役に回り、同年11月に和議となった[1]

1289年選帝侯が7人に決められ、バイエルン公はボヘミア王に選挙権を譲ることに決まったものの、ライン宮中伯のルートヴィヒ2世も選ばれた[1]金印勅書で法的に決められるのは1356年)。ルドルフ1世の死後、1292年ローマ王選挙英語版(1292年5月5日)でアルブレヒト1世を支持したが、他の諸侯はアドルフを選んだため、実現しなかった[1]

1294年2月、ハイデルベルクで死去、自身が建てたフュルステンフェルト修道院英語版に埋葬された[1]。ライン宮中伯は長男のルドルフ1世が単独で相続、バイエルンはルドルフ1世と次男のルートヴィヒ4世が共同で統治した。

結婚と家族

脚注

参考文献

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