改革派神学者のヨハン・ペーター・ランゲ (Johann Peter Lange) の子としてゾーリンゲン近郊のヴァルトに出生。ゾーリンゲンやデュースブルクで育つが、12歳の時に父がチューリッヒ大学へ教授として招かれたため、家族でスイスに移住。自らも1848年からチューリッヒ大学で学び、ついで言語学の講義を受けるためにボン大学に移った。博士の学位を取得。
卒業後は、ケルンの古典文法学校の副校長となる。1855年に哲学の員外教授としてボン大学に戻り、教育の歴史・16世紀の諸学派・心理学・道徳統計学について講義した。1857年の夏には唯物論史について講義をし、その成果は1866年に発刊された主著『唯物論史』(Geschichte des Materialismus) に結実した。同じころ、自然科学を研究し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの生理学の講義に出席し、『論理学大系』『哲学史』の著者であるフリードリヒ・ユーベルヴェーク (Friedrich Ueberweg) と親交を持った。
1858年からデュースブルクの高等学校で校長を務めたが、1861年に辞職してデュースブルク商業会議所の秘書となり、財政的手腕を発揮した。1862年から1866年まで日刊新聞『ライン・ウント・ルーアツァイトゥング』(Rhein- und Ruhrzeitung) の編集者として自由主義の主張を広め、当時の反動的な政府と対決し始める。民衆に知識を普及させるべく努め、ライン地方とヴェストファーレン地方の労働者の利益を擁護するために自身で新聞を発行した。