フレデリック・ハーヴィー (初代ブリストル侯爵)
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第4代ブリストル伯爵フレデリック・オーガスタス・ハーヴィーと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓デイヴァース(Davers)、1800年12月18日没、の娘)の三男として、1769年6月2日にアイルランドで生まれた[1][3][2]。出生時点で長兄ジョージ(1755年10月25日洗礼 – 1764年ごろ)が死去しており、次兄ジョン・オーガスタス(1757年1月1日 – 1796年6月10日)も1女を残して父に先立って死去した[1]。そのため、フレデリック・ウィリアムは爵位の法定推定相続人になり[1]、1796年から1803年までハーヴィー卿の儀礼称号を使用した[2]。1794年にも友人のマウント・ステュアート卿ジョン・ステュアートを失っている[3]。
1786年10月14日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1788年にM.A.の学位を修得した[2]。1793年、リンカーン法曹院に入学した[3]。1788年5月24日にエンサイン(歩兵少尉)として近衛歩兵第一連隊に入隊[4]、1792年7月に引退した[5]。1798年5月29日、イックワース・ヨーマンリー連隊(Ickworth yeomanry)の司令官(Major Commandant、軍階は少佐)に任命された[3][6]。
1796年イギリス総選挙でベリー・セント・エドマンズ選挙区から出馬した[7]。ブリストル伯爵家はベリー・セント・エドマンズで影響力を有したが、有力者のグラフトン公爵家が(4代ブリストル伯爵の妻の弟にあたる)第6代準男爵サー・チャールズ・デイヴァースと手を組み、1774年にブリストル伯爵家を議席から締め出した[7]。その後も1790年イギリス総選挙まで状況が変わらなかったが、グラフトン公爵家の影響力は衰える一方であり、1796年の総選挙ではグラフトン公爵位の法定推定相続人であるユーストン伯爵ジョージ・ヘンリー・フィッツロイが首相小ピットに助力を求めたが、ハーヴィー卿が政府を支持し、政府の有力者との縁故もあったため小ピットにできることは少なく、結果はハーヴィー卿が17票(得票数2位)で当選、ユーストン伯爵の弟チャールズ・フィッツロイ卿が14票(得票数3位)で落選した[7]。デイヴァースは23票で再選したが、1802年イギリス総選挙で引退したことで、グラフトン公爵家とブリストル伯爵家の妥協が成立、両家が1議席ずつを占めることとなった[7]。
庶民院では演説をほとんどしなかったが、採決では第1次小ピット内閣(1783年 – 1801年)を支持、1800年合同法も支持した[3]。1801年2月にはアディントン内閣の外務大臣姉ルイーザの夫にあたるハークスベリー卿ロバート・ジェンキンソン(のち第2代リヴァプール伯爵、首相)により外務省政務次官に任命された[3]。父の第4代ブリストル伯爵はハーヴィー卿の出自、才能、縁故、勤勉を評価して、「10年か12年で国務大臣になれる」(secretary of state in ten or twelve years)と評したが、ハーヴィー卿がそれ以上の官職に就任することはなかった[3]。
1803年7月8日に父が死去すると、ブリストル伯爵位を継承した[1]。1805年5月23日、王立協会フェローに選出された[8]。ほかにもロンドン考古協会フェローにも選出されている[2]。1811年7月1日、ケンブリッジ大学よりLL.D.の学位を授与された[1][2]。
爵位継承とともに少なくとも年収2万ポンド相当の領地を相続し[3]、1806年にはデイヴァースの遺言状によりその遺産を継承した[7]。政治ではアディントン内閣を引き続き支持、1806年の挙国人材内閣も支持した[3]。一方でハークスベリー卿(第2代リヴァプール伯爵)との関係を維持して[3]、リヴァプール伯爵内閣期の1826年6月30日に連合王国貴族であるブリストル侯爵とサフォークにおけるホーニングスヒースのジャーミン伯爵に叙された[1][9]。貴族院では初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルを支持した後、保守党に転じたものの、サー・ロバート・ピールに追従して穀物法廃止を支持、1850年には採決で自由党政権を支持した[1]。ベリー・セント・エドマンズでは1802年の妥協が維持され、1832年の第1回選挙法改正の後も継続した[7][10]。
1859年2月15日にセント・ジェームズ・スクエア6号で病死、24日にイックワースで埋葬された[1]。長男フレデリック・ウィリアムが爵位を継承した[1]。

