フローレス島事件
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女性の選別
1944年4月中旬に、スマランで[2][3][4][5]、警察と憲兵が、地元のユーラシアンの仲介人の協力の下に[2]、約100人の少女や若い女性を徴集し、性病の有無を調べるためと思しき身体検査を受けさせた後、約20人の女性を選び出した[2][3][6][4]。
女性たちは、警察ないし憲兵によって連行されたとも[3][7]、警察の出頭命令を受けて指定日時に警察に出頭したとも[6]いわれている[8]。
対象となった女性には、抑留所の外で生活していたオランダ系の女性のほか、中国人・インドネシア人の女性も含まれており[6][3][9]、選ばれた20人のうち、7人はオランダ系で、他は中国人1人とインドネシア人だった[2]。ホテルやレストランでの職歴があり、様々な理由で警察や憲兵に好かれていなかった女性が集められた[3][10]。
選考や性病検査は、警察署ないし慰安所「スマラン倶楽部」となっていた旧スプレンディッド・ホテルの1室で行われた[2]。
監禁
選ばれた20人の女性たちは、5人ずつホテルの部屋に監禁された[4]。1人あたり50ギルダーを手渡され、受け取りを拒否すると、殴る蹴るの暴行を受けた[4][11]。女性たちは、スマラン倶楽部で性的サービスを強要されたともいわれている[7][6]。怒った女性たちの家族や友人がホテルを取り囲んで抗議した[7][3]。
スラバヤ行
翌日[3]、女性たちは汽車に乗せられ、スラバヤに移送された[3][7][2][12]。
フローレス島行
2ヵ月後、1人が病気になり、2人が逃亡したため、残る17人[13]が船でフローレス島の慰安所へ送られ、売春婦として働くことを強制された[2][3][6][14][4][15]。
慰安所生活
慰安所では、ノルマがあり、1人が午前中に20人の兵士、午後に2人の下級将校、夜には幹部将校の相手をすることが義務付けられていた[4]。
女性たちは、1945年6月頃まで[16]フロレス島の慰安所で働かされた[2]。この間に少なくとも2人が妊娠し、出産した[4]。その後解放され、ジャワへ戻ることを許された[2]。