ブリルギテイ
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ブリルギテイはチンギス・カンに仕えて活躍したスブタイの孫、南宋遠征の司令官として活躍したアジュの息子として生まれた。スブタイは「四狗」の一人と称されたチンギス・カンの最側近の一人、その息子のウリヤンカダイは雲南平定・ヴェトナム侵攻の功労者、その息子のアジュは南宋平定の副将格として活躍するなど、いずれも抜群の武功を残したモンゴル屈指の武門の名家であった。
ブリルギテイが史料上に現れ始めるのは至元20年(1283年)からのことで、この年建寧路で起こった畲族の黄華の叛乱鎮圧に史弼とともに派遣された[2]。黄華の軍勢は10万と号する大軍であり、頭陀軍とも称して南宋の復興を掲げていたが、ブリルギテイらは2万5千の兵を率いてこれを平定した[3][4]。
至元22年(1291年)11月、江淮行省平章政事として東海岸地域の防備について以下のように上奏している[5][6]。
はじめ、丞相バヤンおよび元帥アジュ、アタカイらが行省を守った時、各路に軍を置いて駐屯させましたが、その際、土地の重要性を勘案して、駐屯軍の兵数を加減しました。この後、マングダイがこれ(バヤン、アジュ、アタカイら)と交代し、ことごとく駐屯軍の制度を変更して、将官(軍官)や士卒を配置がえし、はなはだ宜しくありません。今、福建の盗賊(反乱)はすでに平定されましたが、ただ浙東道だけは、土地は辺鄙極悪で、賊が巣穴としている所ですから、ふたたび三万戸を帰還させて、そこ(浙東道)を守備させていただきたい。[具体的には、万戸]カラタイ(合剌帯)の軍は、沿海と明州・台州に駐屯し、[万戸]イキレス(亦怯烈)の軍は、温州・処州に駐屯し、[万戸]ジャクタイ(札忽帯)の軍は紹興・婺州に駐屯する。ところで、寧国・徽州では駐屯軍に当初、現地の兵卒(土兵)を使いましたが、後にみんな賊と内通したので、今ことごとくこの兵卒を長江以北に移し、あらためて高郵・泰州の二万戸の漢軍を移動してここ(寧国州)に駐屯させる。揚州・建康・鎮江の三都市は、長江を跨ぐかたちで位置し、人口も多いので七万戸府を設置する。杭州は行省の諸部門の倉庫がある所なので、四万戸府を設置する。水戦に備えた制度は、もとは十箇所にとどまっていた。いま、海に面し江に沿う要害二十二箇所を選んで、兵員を分けて軍事演習(閲習)し、もろもろの盗賊の様子を探る。銭塘は海港(海口)を押さえる所で、もとは戦艦二十艘を設置していましたが、少ないために、海賊が時々出現し、船を奪い人を殺しています。今、戦艦百艘 ・海船二十艘を増やし設置すれば、その故に海賊も敢えて出ようとしないしょう」と。 — ブリルギテイ、『元史』巻16及び巻99[7]
この上奏では前年に職を辞したマングダイによる江南駐屯軍の配置換えを改悪であると非難しており、ブリルギテイの意見を認めたクビライによって江南駐屯軍は再度配置換えを行うこととなった[8]。
至元26年(1289年)、黄華と同じく畲族であった鍾明亮に呼応する形で婺州の賊5万が武義県を掠奪したため、ブリルギテイがこれを討伐した[9][10]。至元30年(1293年)2月頃には江淮行枢密院の職に就いており[11]、至元31年(1294年)にはカルルク兵及びかつてナヤンの乱に荷担していた者達700名余を率いて水上戦闘を習練するよう命じられている[12]。クビライが亡くなり、オルジェイトゥ・カアン(テムル)が即位した後もしばらくは江淮行枢密院に属していたが、オルジェイトゥ・カアンの治世の末には河南行省丞相の地位に即いた。ブリルギテイが江南方面から河南行省に転任となったのは、スベエテイ家が始祖スベエテイが汴梁攻略に携わって以来汴梁を本拠地としていたためと考えられる[13]。河南行省丞相としては、王約の活動を支援したことなどが知られている[14]。
大徳11年(1307年)、オルジェイトゥ・カアンが亡くなるとその妻のブルガンは自らの権力を守るため、最も血統的に帝位に近いカイシャン、アユルバルワダ兄弟ではなく安西王アーナンダを帝位に即けようと図った。これに反発したハルガスンら反ブルガン派官僚は密かに懐州に居住するアユルバルワダとその母のダギに使者を送り、アユルバルワダを擁立して宮廷クーデターを起こす計画を始めた。ダギ、アユルバルワダによって協力者として集められたのがチャガタイ家のトレ、ナンギャダイ、そしてブリルギテイらであり、彼等はクーデターを成功させて一旦はアユルバルワダが最高権力者の地位に即いた[15]。ところがアユルバルワダの兄のカイシャンも同時期に報せを受けて帝位に即くべく行動を始めており、モンゴリアで強大な軍団を率いるカイシャン派にアユルバルワダ派は譲歩せざるを得ず、結局はカイシャンがクルク・カアン(武宗)として即位した。そのため、宮中クーデター成功の立役者の一人であるはずのブリルギテイはクルク・カアン政権下ではあまり栄達できなかった。
その後、クルク・カアンが急死しアユルバルワダがブヤント・カアンとして即位すると、皇慶元年(1312年)に中央の要職につけるべきだとの上奏が王約により出され[16]、延祐元年(1314年)、ブリルギテイは河南王とされた[17]。当時としては皇族でなく、準皇族のキュレゲン(女婿)でもない臣下が王号を授与されるのは異例のことであり、ブヤント・カアンのブリルギテイへの信任ぐあいが窺える[18]。また別の機会には、ブヤント・カアンはハルガスン、ブリルギテイ、ナンギャダイらの助言を聞いたからこそ帝位に即くことができたと語っている[19]。
ブリルギテイは遅くとも天暦2年(1329年)以前には亡くなっているが、晩年の事蹟についてはほとんど記録が残っていない。ただし、元末に陶宗儀によって編纂された『輟耕録』には河南行省丞相時代のブリルギテイの鷹揚さを示すエピソードが収録されている。『輟耕録』によると、ブリルギテイが河南行省の丞相を務めていたある時、田栄甫という吏が決済のため印をもらいに訪れたが、ブリルギテイはこれを宴会に誘った。宴の最中にブリルギテイは印を箱から取り出させたが、田は誤ってこれを落としてしまい、印はブリルギテイの服の上に落ちた。この日、たまたまブリルギテイは新調したばかりの服を着ており、服は朱色に汚れたが、ブリルギテイは全く動じず歓談を続けたという[20]。