雲南・大理遠征
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経緯
クビライを中心とする遠征軍はドロン・ノールに本拠地をおき、1253年10月に東チベットを経由して大理への遠征を開始した。クビライらはモンゴル帝国軍伝統の三軍編成をとり、スブタイの子のウリヤンカダイが西路を、チャクラとエジルが東路を、そしてクビライ自身が中央路から南下して大理国に攻め込んだが、その作戦は非常に困難なものとなった。
雲南地方は多くの川・谷を持つ非常に複雑な地形である上、雲南の亜熱帯気候は寒冷な気候に育ったモンゴル兵を苦しめた。記録では華北から連れてきた四十万頭の軍馬はほとんどが失われ、兵士は八割近くが疫病にかかり倒れたといわれる。
大理国内の諸勢力もモンゴル帝国に抗戦するか否かで二派に別れ、摩些詔(現代のナシ族)の豪族の阿琮阿良(後の木氏の祖)などはいち早く恭順の意を表してモンゴル軍の金沙江の渡河を助け、後にモンゴル帝国に麗江を支配する土司に任命された。ようやく首都の大理に到着したクビライは部下に殺戮を厳禁させた上で大理に対し降伏勧告を出し(『集史』ではクビライの漢人ブレーンの一人の姚枢が北宋の太祖の部将の曹彬が南唐を無血開城させたことを故事にひいた進言があったといわれる)、1254年に大理国はモンゴル帝国に降伏した。
当時の国王段興智は一旦昆明に逃亡した後に捕らえられたが、モンケによって南詔以来の「摩訶羅嵯(マハーラージャ)」の称号を与えられて大理総管に任ぜられ、雲南西部の統治に関わり続けた。また、段氏は旧大理国内で「爨僰軍」と呼ばれる部隊を編成し、ベトナムへの侵攻やビルマのパガン王国との戦いにもモンゴル軍の一部として参加することとなる。
このように多大な犠牲を払って雲南を征服したモンゴル軍であったが、当時雲南は世界有数の金・銀の産地であったこと、また南宋を攻める上で絶好の戦略的位置にあることなどから軍事・経済を重視するモンゴル帝国にとって大理国の屈服はそれに見合うだけの意味を持った。