ブルーノ・マルティーノ
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ローマに生まれる。少年時代から正式な音楽教育を受けつつ、密かにジャズに対する関心を深め、イタリアが政治・軍事的に混乱期にあった第二次世界大戦末期の1944年、ローマのラジオ局「RAI」の専属オーケストラであるピエロ・ピッチョーニ(w:Piero Piccioni 1921年-2004年)率いるバンドにピアニストとして参加することで本格的なプロ・ミュージシャンとしてのキャリアを開始した。
1947年にはイタリアから出て、ヨーロッパ各地、特にデンマークを中心とした北欧での演奏活動を行うようになり、各地のナイトクラブでピアニスト、バンドリーダーとして活躍した。アメリカン・ポピュラーやジャズに加え、外国人受けするイタリア民謡を演奏し、更に自らのオリジナル・ナンバーも手がけるなど、広範なレパートリーで人気を得る。
1958年にイタリアに戻ると、カテリーナ・ヴァレンテ、レナート・ラスチェル、ウィルマ・デ・アンジェリスなど、当時のイタリアを代表する錚々たる人気歌手のために作曲を行うようになり、作詞家のブルーノ・ブリゲッティ(Bruno Brighetti)などとのコンビによる作品を多く送り出した。この頃、オーケストラでの伴奏中に歌手が席を外してしまったせいで偶然に歌声を披露する羽目になり、これがきっかけで歌手としても活動するようになる。
弾き語りのピアニストとしての朗々とした歌唱ぶりにも人気があり、世間からは "Principe dei nights"(ナイトクラブの王子様)の異名を奉られた。テレビショーなどにもビッグ・バンドを率いて度々出演し、イタリア国外での公演も多く行った。配下のオーケストラからは優れたミュージシャンを輩出している。
戦後のイタリアでもっとも人気のあった歌謡フェスティバルである「サン・レモ音楽祭」では、自作曲を出場歌手に提供した例は幾度かあったものの、自ら出場したのは唯一1961年大会のみである。この時は、女性歌手ジュラ・デ・パルマ(w:Jula de Palma 1932年-)をパートナーに自作の「あ、あ、あ愛をさがそう」“A.A.A. Adorabile cercasi”を歌ったが、本選進出は成らなかった[1]。
1980年代まで新作アルバムを送り出すなど音楽活動を続けたが、後年の活動は徐々に低調となった。1993年11月、ウンベルト・ビンディとの共演で、ローマのフライアーノ劇場において『二つの人生、一つのピアノ』と題した連続コンサートを開催したのが、彼の最後の輝きであったと言える。最晩年は大衆からもほとんど忘れられた存在となり、2000年に心臓発作のため死去した。
