ブレイクダンス
ストリートダンスの一つ
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概要

ブレイクダンスの興隆期は、1980年代とされている。英語圏では、ブレイキン(Breakin)とも呼ばれ、ダンサーをB-ボーイ(b-boy)やB-ガール(b-girl)と呼ぶ。B-ボーイ、B-ガールの“B”はブラックの“B”と誤解されがちだが、これは誤りであり、Bボーイとはブレイク(突破)する者[注 1]の事である。「ブレイクダンス」「ブレイキン」という呼称は、1980年代前半に世界的に広く知られるようになった。
ブレイクダンスは1970年代中盤頃にニューヨークのサウスブロンクス地区のアフリカ系アメリカ人やラテンアメリカ人の若者達によって発展したストリートダンスのスタイルである[1][2]。
前史

19世紀にブレイクダンスに類似したダンスが存在したという説もあり、1867年に出版されたジョン・マクレガーの著書『バルト海航海記』には、「若い男が一人で、空中で不可解な跳躍を繰り返し練習していた…彼は身体を振り上げ上腿が大きな円を描いた時、手を軸にして回転していた」という、スウェーデンのノーショーピング市近くで見たとされる描写がある[3]。その外観は一見ブレイクダンスのように見え、”サーモン地区のダンス”などと呼ばれていたという[4]。1894年、発明王のエジソンが開発に協力したキネトスコープの実演用として、「ブレイクダウン」を踊っている映画を撮影した[5][6]。その後、1898年に彼は曲芸的な「ヘッドスピン」を披露する若いストリート・ダンサーの映画を撮影した[7]。20世紀には、1959年にナイジェリア・カドゥナ州の民族の間でブレイクダンスが存在していたという映像もある[8]。この種の踊りは、1500年代からブラジルに伝わる古典的柔術・カポエイラの動きが起源だとする説を信じる人々は多い[9]。
歴史
ニューヨーク・ブレイキングの開拓者・ロック・ステディー・クルーのCrazy LegsとKen Swiftは、少年時代にカポエイラを見たことはなく、むしろソウル・ヒーローだったジェームス・ブラウンの踊りやカンフー映画の影響があった、と述べている[9]。カポエイラがブレイクダンスに影響を与えたとされる直接的な論拠はない[2]。
ブレイクダンスのルーツは、アフリカ・バンバータ[注 2]の提案でギャングが抗争をまとめるために銃撃戦の代わりにブレイクダンスのバトルを行ったことがきっかけと言われている。そして映画『ワイルド・スタイル』(1982)はブレイクダンスをアメリカ以外の世界に拡大した。アメリカのヒップホップ・ジャーナリスト、ジェフ・チェンは「1970 - 1980年代にかけてニューヨーク、ブラック、ラティーノ・キッズの中で新しいストリート・ダンスが浸透した。そのスタイルは微妙な地域差を生み出した。ニューヨーク、ブルックリンではuplock、ないしrocking、ロサンゼルスではlocking、フレズノではboogaloo、poping、サンフランシスコやオークランドではstruttinと呼ばれた。その後、1980年中頃になってこれらのスタイルの総称としてメディアがbreak–dancingと呼び始めたのだ」と述べている[9]。
ニューヨークのロック・ステディー・クルー(Rock Steady Crew)などのクルー同士によるバトルがメディアに取り上げられ、これがダンスチームの増加につながった。[10]ディスコクラブ、公共イベントなどにもブレイクダンサーは進出。人気は1980年代後半には下降気味となったが、アフリカ・ダンスなどの動きが取り入れられ、地味ながら安定した人気が継続した。ヒップホップの創始者とも言える、DJクール・ハークは、ファンク、R&B、ラテンなどの音楽に共通する"break"、つまり曲の流れを変えるパーカッションだけの中間部分を繰り返しループさせる技術によってダンサーたちの欲求を刺激した[9]。つまり"break"の語源は楽曲中における音楽用語としての「ブレイク」に由来するものと考えられる[9]。「ブレイク」が訪れるとダンサーたちはフロアの輪の中に飛び込み、自ら即興的(improvisational)な踊りを曲のブレイクの間中披露した。数人のダンサーによるバトルが展開されることも多く、誰が最も多くの喝采を浴びたかという基準で技を競い合った[9]。
音楽はブレイクダンスにとって大切な要素である。ブレイクダンスの音楽であるブレイクビーツの元となった原曲は、1970年代から1980年代頃のファンク、ソウル、ラテン、ディスコ、R&Bなどの間奏に見られる。これらの異なった曲をDJが編集したものが用いられる。この手法はDJクール・ハーク[注 3]により生み出された。さらにハークの友人であるグランドマスター・フラッシュ[注 4]や、アフリカ・バンバータらがこれを発展させた。やがてブレイクビーツのほかにスクラッチも、ヒップホップ文化の要素として加えられた。
アメリカ公開から3ヵ月後、1983年7月に日本でも公開された『フラッシュダンス』の中盤にほんの60秒[2][11]、キャストクレジットには無記載のブレイキングのクルーが路上で踊るが[2][11]、彼らはそこらにいた素人ではなく、そのロック・ステディー・クルーで[2][12][13][14]、使用された楽曲はJimmy Castor Bunchの「It's Just Begun」である[12]。この"ダンスらしくないダンス"は、世界各国でタイムラグは生じるものの、国境を越え世界中の男心を鷲掴みにした[2]。日本に於いても『フラッシュダンス』を都内の映画館で観た風見慎吾がこの1シーンに驚き、渡米してブレイクダンスを習得し、1984年12月リリースの楽曲『涙のtake a chance』で全編ブレイクダンスの振り付けを取り入れた逸話はよく知られる[11][15][16][17][18]。
ブレイクダンスに適した音楽であればジャンルは制限されず、異なった音楽のジャンルであるエレクトロ、ロックなども使用される。ブレイクダンスの課題曲としては、ジェームス・ブラウン[注 5]の「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」やジミー・キャスター・バンチの「イッツ・ジャスト・ビガン」、インクレディブル・ボンゴ・バンドの「アパッチ」[19] などがある。 1983年には初期のストリート・カルチャー映画『ワイルド・スタイル』が公開されブレイクダンスを披露している[13][20]。
1984年には映画『ビート・ストリート』[21]と、映画『ブレイクダンス(原題:Breakin')』が公開された。映画『ブレイクダンス』からは、オリー&ジェリーの「ブレイキン・・ゼアズ・ノー・ストッピン・アス」は全米ポップ・チャートでもヒットしている。また1985年には、「クラッシュ・グルーヴ」が公開されている。

アメリカでは、ロック・ステディ・クルーのメンバーも、ファブ・ファイブ・フレディ、ビッグ・ダディ・ケインも「Bボーイ」という用語を使用し、ブレイクダンスの普及に貢献した[22]。またNYC.BREAKERSなどがメディアで活躍し、アメリカ国内でブームを巻き起こすも、ブレイクダンスのブームは80年代後半には下火になってしまった。だが、80年代にはブレイクダンスはヨーロッパや日本にも伝わり、人気を得ることになる。
1990年にはドイツで、第1回Battle of the Yearが開催された。[23]1990年代、ブレイクダンスの基礎を築いたロック・ステディ・クルーのPrince Kenswiftの影響を色濃く受けたアメリカのチーム「STYLE ELEMENTS」はブレイクダンスのレベルを上げたと言われ、後のシーンにも影響を与えた。2000年代に入り、斬新なダンスを見せるダンサーがフランスなどのヨーロッパ諸国や、韓国からも登場した。韓国の代表チームは、著名な世界大会のタイトルを次々と獲得し、確固たる地位を築いている。韓国ではブレイクダンスのプロとして活躍しているダンサーも多く、政府までが支援に乗り出している。さらにイベント会場も、クラブのようなアンダーグラウンドな場所ではなく、一般のホールなどを借りて行われることも多い。ブレイクダンス・シーンは、北アメリカ、ヨーロッパ以外にも、東アジア、東南アジア、西アジア、アフリカ、オセアニア、南米(ブラジルなど)など、世界各地に拡大している。


Bボーイ・ファッション
ダンス・テクニック
ダンスには身体的なリスクも付いて回り、手根管症候群をはじめとする神経障害や、ヘッドスピンの多用が頭皮に悪影響をもたらすこともある[25]。
- トップロック…立った状態での踊りのことで、代表的なものにエントリー、アップロック、ブロンクスステップなどがあるが、ブレイクダンスにおける立ち踊り全般をトップロックと呼ぶこともある。
- フットワーク…屈んだ状態で素早く足を動かしたり挑発したりする動きのことで、代表的なものに 6ステップ、3ステップ、シャッフル、キックアウト、CC などがある[26]がこれらは教える際に伝えやすいために作られたものである。フットワークを中心に様々な動きをするものを総括してスタイル、リズムブレイキンなどと呼ぶ[27]。
- パワームーブ…全身(主に上半身)を使い、回ったり跳ねたりするアクロバティックな動きの総称。代表的なものに、背中や肩で回転するウィンドミル、頭で回るヘッドスピンなどがある。基本的には脚を地面につけることのないムーブであるが、スワイプスなど脚を地面につける技もあり、うつ伏せで体を浮かし手のひらで回転するクリケットや開脚旋回のトーマスフレアなどもある。一般的に一つの技のみを披露するのではなく、いろいろなパワームーブを織り交ぜた(コンビネーション、繋ぎと呼ばれている)連続技を披露する。[28]
- フリーズ…フットワークやパワームーブの一連の流れの中から音に合わせて体、動きを固めて止めること。代表的なものに、チェアー、マックス、アローバックなどがある。
日本のシーン
歴史
1983年10月に日本でも公開されたアメリカ映画『ワイルド・スタイル』で1983年11月に来日した[29]「ロック・ステディー・クルー」が日本にブレイクダンスを紹介した[30][31]。アメリカのヒップホップカルチャーが日本に紹介されたのはこの映画が最初[31]。ヒップホップカルチャーは、それまではほとんどメディアに紹介される事はなかったが[31]、西武デパートの記念イベント[32][33] としてテレビ番組『11PM』で放映された[34]。その時の放映で『ファンキージャム[35]』がエレクトリックブギを教えていることが紹介される。その後ファンキージャム・ブレーカーズが誕生し、日本各地でショーをしたことで広く知られる事となる[36]。『ワイルド・スタイル』を大映と共同配給し[30][37]、ロック・ステディー・クルーを日本に連れて来たのは葛井克亮である[30][37](詳細は人間の証明#影響を参照)。いとうせいこうらは、ヒップホップの主要構成要素であるラップとDJに注目したが、若者の間ではブレイクダンスの方が日本では先に浸透していく[31]。
1984年11月17日公開の日本映画『ザ・オーディション』では、冒頭にブレイクダンスを踊る若者が登場する。日本に於けるブレイクダンスの普及については「『ワイルド・スタイル』に出演したダンサーが1980年代前半にツアーで日本に来て、それを見た人たちが代々木(代々木公園前)のホコ天で始めて日本に広がった」とする証言があるが[38]、『ザ・オーディション』は1984年8月末から10月始めに撮影された映画であり[39]、劇中、代々木のホコ天も映るがブレイクダンスをやっている者はまだいない。
普及
日本における「ブレイクダンス」という語の比較的早い使用例として、『シティロード』1983年10月号の映画『ワイルド・スタイル』紹介記事がある。同記事では、肩や頭で回転するアクロバティックなダンスとしてブレイクダンスが紹介されている[29]。事典類では、『現代用語の基礎知識』1984年版に「ブレーク・ダンシング」の項目が掲載されており、映画『フラッシュダンス』などを背景とした当時のアメリカの流行として説明されている[40]
また、映画『ブレイクダンス』公開時の1984年には、映画評論家の渡辺祥子が『週刊平凡』で、「ナイフや銃で闘っていた黒人たちは、いまやブレイクダンスを武器に勝負する 全米を揺るがすこの激しい社会的現象は映画『ブレイクダンス』を境に再び日本を襲撃してきた」[41]という見出しで、ブレイクダンスをニューヨークのストリート文化として紹介している。
ブレイクダンス・ブーム
1984年11月には、風見慎吾が楽曲「涙のtake a chance」を発売し、ブレイクダンスの動きがテレビを通じて一般にも知られるようになった[11][14][15][16][17][18][42][43][44][45][46][47][48][49]。風見がテレビで初めてブレイクダンスを披露したのは、レギュラーだった『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS)内であるが[45]、これ以前について風見は「当時のダンサーと言えば、東京音楽学院のスクールメイツと日テレ音楽学院のザ・バーズしかいなかった」と証言している[45]。同曲は"歌謡曲にブレイクダンスを取り入れた"と評されることが多いが、風見が実際にやったことは、むしろその逆、"ブレイクダンスに歌謡曲を取り入れた"ものだった[11]。ブレイクダンスの激しい動きは、それまでも歌番組では考えられない物で、アスリートの機敏な動きを捉える画角を瞬時に判断できるカメラワークが求められるようになった[11]。以降のダンス&ボーカルグループでは、ダンスとボーカルは分離され、歌パート以外にダンサーがダンスを披露する時間が曲内に設けられるなど、後のダンス・ミュージックのライブパフォーマンスに大きな影響を与えた[11]。風見は「大将(萩本欽一)の決断がなければ日本のヒップホップは5年普及が遅れたと思う」と述べている[45]。日本のヒップホップ文化は、ラップより前にブレイクダンスが流行った[13]。
1985年8月3日公開の松竹映画『俺ら東京さ行ぐだ』では、劇中、代々木のホコ天でブレイクダンスを踊る男の子が映る。お笑い芸人のナインティナイン・岡村隆史は1980年代から『KID』というBboyネームを名乗り、関西を拠点とするブレイクダンスクルー『ANGEL DUST BREAKERS』のメンバーとして活躍していた[50]。
1986年に放送されたNHK銀河テレビ小説『まんだら屋の良太』のオープニングでは主人公・大山良太役の杉本哲太がブレイクダンスを披露している[51]。
2007年、テレビ朝日『仮面ライダー電王』で、主人公・野上良太郎役の佐藤健がブレイクダンスを踊るシーンが放送された[52]。
2010年代からテレビでのダンス番組が増えた他、2012年度に改訂された新学習指導要領にて中学体育でのダンスが必修化され、SNSの普及とともに更に若い層の新規参入に貢献している。ヤマハミュージックジャパンが公開した2015年のデータ『ダンスに関する意識調査』(小学生のこどもを持つ親、男女各500人)によれば、全体の一割が民間あるいは公共のダンススクールに通い、そのうち七割が"ストリートダンス"を習っているという[2][注 6]。
2015年版『スポーツ産業白書』によれば、日本のストリートダンス人口は600万人を越え、うちブレイクダンス/ブレイキンの比率が最多といわれる。これはサッカー人口480万人を凌ぐ[2]。2020年には世界初のプロダンスリーグ「D.LEAGUE」が日本国内で発足。ブレイクダンスを主体とするチームを始め、複数のチームでブレイクダンサーがDリーガー(プロダンサー)として活動している。ブレイキンが2024年パリオリンピックの競技に採用され、日本では2023年2月19日に「第4回全日本ブレイキン選手権」がNHKでテレビ放送された。同年12月31日に放送された第74回NHK紅白歌合戦では、郷ひろみがShigekixらと共にブレイキンに挑戦し、逆立ちして止まる大技のマックスを披露した[53]。
国際大会
1998年に開催されたUK B-BOY CHAMPIONSHIPSにて、日本のチームとして初めて「The Spartanic Rockers」が世界大会優勝を果たした。[54]1998年および1999年のBattle of the Yearでは、共にBEST SHOWを受賞した。関西ではチーム一撃が活動している。Battle of the Yearでは2000年代以降も、複数の日本のチームがBEST SHOWを受賞している。同大会での優勝は、2015年に「The Floorriorz」が初めて達成し、2017年まで大会3連覇を果たした。世界的な大会としては、2000年代は「Battle of the Year」と「UK Bboy Championships」、「Freestyle Session」が世界三大大会と称されるようになった。他にも「IBE」、WDSF世界ブレイキン選手権などがある。
個人による世界大会であるRed Bull BC ONEでは、2004年の第1回に日本人ダンサーが出場した。[55]2016年には名古屋で開催され、Isseiが日本人初の優勝を達成した。2017年にはAyumiが大会初のB-GIRLとして出場し、2018年からはB-GIRL部門が創設された。同年Amiが日本人2人目、B-GIRL部門初代女王となった。2020年にはShigekixが日本人3人目、大会史上最年少(18歳)で優勝した。2023年にはAmiが2度目の優勝を達成した。2018年ブエノスアイレスユースオリンピックではスポーツ競技としてブレイキンが初採用され、Ram(河合来夢)が金メダル、Shigekix(半井重幸)が銅メダルを獲得した[56]。
2024年パリオリンピックでは正式に競技として採用された。2023年10月7日に開催されたアジア大会ではSHIGEKIX(半井重幸)が金メダルを獲得し、パリオリンピックの日本代表に内定した[57]。2024年のパリオリンピック予選シリーズでは獲得ポイントが上位となったHIRO10(大能寛飛)、AMI(湯浅亜実)、AYUMI(福島あゆみ)が代表に内定した[58]。オリンピック本戦では、女子でAMIが金メダルを獲得し、男子ではSHIGEKIXが4位となった。 オリンピック界では国際オリンピック委員会 (IOC) およびIOC公認団体ARISFに加盟する世界ダンススポーツ連盟 (WDSF) が「ブレイキン」の名でダンスバトル競技を始めた。WDSFはもともと社交ダンスのスタンダード&ラテンをメインとしており、そこにストリートの世界が共存することとなった。スタンダード&ラテンを差し置き、ブレイキンが2018年ブエノスアイレスユースオリンピックで3種目(男子、女子、男女混合)構成で正式競技となり、2024年パリオリンピックでは2種目(男子、女子)が追加種目となった。しかし、2028年ロサンゼルスオリンピックでは、追加競技候補から外れている[59]。