ブローカーズティップ
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| ブローカーズティップ | |
|---|---|
| 欧字表記 | Brokers Tip |
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 青鹿毛 |
| 生誕 | 1930年 |
| 死没 | 1953年 |
| 父 | Black Toney |
| 母 | Forteresse |
| 母の父 | Belgravia |
| 生国 |
|
| 生産者 | Idle Hour Stock Farm |
| 馬主 | Edward R. Bradley |
| 調教師 | Herbert J. Thompson |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 14戦1勝[1] |
| 獲得賞金 | 49,600ドル[1] |
ブローカーズティップ(Brokers Tip、1930年 - 1953年)は、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、および種牡馬。1933年のケンタッキーダービー優勝馬だが、それ以外の勝鞍がひとつもないというめずらしい戦績を持つ。これは歴代のケンタッキーダービー馬の中で唯一のものである。
20世紀初頭アメリカのオーナーブリーダーであった、エドワード・ライリー・ブラッドリーの生産した競走馬の一頭である。デビューは2歳からだったが、2歳時は4戦して1勝も挙げられず、最高順位は2着が1回、ステークス競走ではシンシナティトロフィーで3着に入ったのが最高であった[1]。
未勝利のままで出走した1933年のケンタッキーダービーにおいて、ブローカーズティップは後方から徐々に順位を上げてゆく競馬をし、最後の直線に向いた時点で先頭のヘッドプレイとアタマ差にまで持ち込んだ[1]。この最後の直線において最初に「手を出した」のは、ブローカーズティップ鞍上のドン・ミードの側で、迫ってくるブローカーズティップを内ラチへと閉じ込めようとしてきたヘッドプレイ鞍上のハーブ・フィッシャーを、自身の手で押し返そうとした。一方のフィッシャーもミードの手に掴みかかり、両者とも鞭を振るうことも忘れて相手と掴み合いのままゴール線を越えた。
パトロールフィルムや写真判定などのなかった当時、これらの反則的行為はどれも咎められることはなかった。一方でどちらが優勝したかも判別し難く、最後には審判の審議によって決定され、結果ブローカーズティップは2着ヘッドプレイをハナ差凌いで同競走を制覇したこととなった。フィッシャーはこの結果に納得がいかず、亡くなるまで自分が本当の勝者であったと主張し続けていた。この決着は「ファイティング・フィニッシュ (Fighting Finish) 」とも呼ばれ、ウォーレス・ロウリーの撮影した決勝線手前の写真[2]とともに、ケンタッキーダービー史上に残る競走となった[3]。のちの2006年にアメリカ合衆国の大手競馬専門誌ブラッド・ホースにおいて、競馬史の決定的瞬間を集めた『Horse Racing's Top 100 Moments』という企画が発表され、この「ファイティング・フィニッシュ」はその44位に位置付けられた[c 1]。
ケンタッキーダービーの次に出走したプリークネスステークスで故障した[3]ため3歳シーズンで引退し、その後は種牡馬入りしている。代表産駒に1938年生まれのマーケットワイズがおり、同馬はウッドメモリアルステークスやサバーバンハンデキャップなどで勝ちを挙げており、父とは違って53戦19勝の堅実な成績を残した[4]。ほかのピーターパン系と同様に父系子孫はすでに残っていないが、1970年代までは続いていた。なお、引退後も6歳時に復帰しているが、5戦していずれも着外に終わっている[1]。
ブローカーズティップは1953年に死亡した。後年、ブローカーズティップの遺骸が埋葬された場所が土地開発の対象とされたため、チャーチルダウンズ競馬場のケンタッキーダービー博物館内にその墓地が移設された。
総合成績
※当時はグレード制未導入。
- 1932年(2歳) 4戦0勝 600ドル
- 3着 - シンシナティトロフィー
- 1933年(3歳) 5戦1勝 49,000ドル
- 1着 - ケンタッキーダービー
- 1936年(6歳) 5戦0勝 0ドル