しかし母娘と同時に結婚したことや、相次ぐ戦争と重税とで人気を落としたプトレマイオス8世は民衆から支持されず、暴動さえ起こって叛徒が宮殿を囲むこともあった[1]。さらに宮廷内ではプトレマイオス8世とクレオパトラ2世、3世の権力争いが続いた[6]。ついにクレオパトラ2世がアレクサンドリアで兵を起こしたため[6]、プトレマイオス8世は若いクレオパトラ3世とキプロスに脱出することになる[1]。エジプトは残ったクレオパトラ2世が治めることになったが、プトレマイオス8世はそれを恨んだのか自分とクレオパトラ2世の子であるメンファイテスを刻んで殺し、誕生日にあわせて送りつけたと伝わる[1]。また王に逆らうアレキサンドリアの知識人は皆その意趣返しとして追放や粛清を受けた。そのなかにはサモトラケのアリスタルコスやアテナイのアポロドロスなどもいた。紀元前145年には「あらゆる知識人が追放された。文献学者、哲学者、幾何学の教師、音楽家、画家、学校教師、医師、他にもいた。その結果として『学識がギリシア人と他の異邦人とにもたらされた』と、おそらくはその犠牲者の1人が述べている」(バルカのメネクレス、ギリシア歴史家断片集 270 F 9)[7]。