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プリスカ (ローマ皇后)

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在位 284年 – 305年
全名 アウレリア・プリスカ
Aurelia Prisca
出生 不明
死去 315年
プリスカ
Prisca
ローマ皇后
クロアチア・スプリトのディオクレティアヌス宮殿にある浮き彫り。皇后プリスカを描いたものと推測されている。
在位 284年 – 305年

全名 アウレリア・プリスカ
Aurelia Prisca
出生 不明
死去 315年
配偶者 ディオクレティアヌス
子女 ガレリア・ウァレリア
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ディオクレティアヌス宮殿で行われた歴史再現イベントにおいて、ディオクレティアヌスとプリスカを演じる役者
プリスカの氏族名(英語版)と称号(AVRELIAE PRISCAE NOBILISSIMAE FEMINAE、最も高貴な女性アウレリア・プリスカ)が刻まれている、ユーピテル神殿に由来するスポリア(英語版)(蔵:スプリト考古学博物館(英語版))[1]

アウレリア・プリスカ(ラテン語: Aurelia Prisca、生年不明 - 315年)は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの皇后。

プリスカの生年は不明である。ディオクレティアヌスがローマ皇帝に即位したときには既に結婚しており、娘のガレリア・ウァレリアも誕生していた。プリスカには、通常ローマ皇帝一族の女性に贈られる「アウグスタ」(Augusta)や、ローマ皇后に贈られる「カエサリッサ」(Caesarissa)などの名誉称号がなく、その代わりに「ノビリッシマ・フェミナ」(Nobilissima Femina、最も高貴な女性)という称号が与えられていた[2][1]。西洋古代史学者のロタール・ヴィッケルト(ドイツ語版)は、1974年に、娘であるガレリア・ウァレリアの名前に基づいて、プリスカの氏族名(英語版)は「ガレリア(英語版)」であるとする説を立てた。ウァレリアは後にガレリウスと結婚するが、彼が娘婿に選ばれ、ディオクレティアヌスの後継者に位置付けられたのも、プリスカがガレリア氏族であり、ガレリウスと親族関係にあったためと考えられている[3]。一方で、ダルマティア属州のサロナにあったユーピテル神殿の碑文では、彼女の名前は「アウレリア・プリスカ」と記されている[1]。作家のバイロン・ウォルドロンは、プリスカの名に「アウレリア」が加えられたことについて、 ディオクレティアヌスと共同皇帝(西方正帝)であるマクシミアヌスが両者の絆を強化するために、互いの名である「ウァレリウス」と「アウレリウス」を交換したことで生じたと主張している[4]。

305年、ディオクレティアヌスが退位に伴ってスパラトゥムに身を寄せると、プリスカはディオクレティアヌスの跡を継いで東方正帝となったガレリウス夫妻とともにテッサロニキに移った。ガレリウスが311年に亡くなってからは、娘のガレリア・ウァレリアとともにリキニウスの元へ赴いた。しかし、ほどなくして2人はリキニウスの元から逃げ、ガレリウスの甥であるマクシミヌス・ダイアに身を寄せるようになった。だが、マクシミヌスから求婚されたウァレリアが、その申し出を断ったために彼の怒りを買い、シリア属州に幽閉されて財産を没収された。リキニウスとの権力闘争に敗れてマクシミヌスが死去すると、リキニウスはプリスカ、ウァレリア両名に対して死刑を命じ、315年、2人は首を刎ねられて処刑された[5]。

信仰

脚注

参考文献

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