プントランド・ソマリランド紛争

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CIAが2012年に作成したソマリランドとプントランドの紛争状況。中央の部分が紛争地域。2022年時点でこの領域の多くをソマリランドが実効支配している。

プントランド・ソマリランド紛争(プントランド・ソマリランドふんそう、: Puntland–Somaliland dispute)は、内戦状態にあるソマリア内の独立地域、ソマリランドプントランドの間の戦争。時々実戦も行われているが、直接的な戦闘は少ない[1]:14

争われているのは両国の間にあるスール地域Sool)、サナーグ地域Sanaag)の一部、トゲアー地域の一部(プントランド側の呼称ではアイン地域Cayn))であり、プントランド側はそれぞれの頭文字をとってSSC地域という。これらの地域は、1991年のソマリランド独立宣言の時点ではソマリランドへの参加を表明していたと見られるが、1998年のプントランド設立宣言の時点ではプントランドにも参加を表明して帰属が曖昧になっていた。2002年にプントランドがスールのラス・アノドを占領してからは多くがプントランドの実効支配下となった。ところが2007年にソマリランドがラス・アノドを占領してからは立場が逆転し、ソマリランドが徐々に実効支配地域を広げて、2022年時点ではスール地域の大部分はソマリランドの実効支配下にあり、アイン地域も最大都市ブーホードレを除いてソマリランドの実効支配下にあり、サナーグ地域も東部の一部を除いてソマリランドの実効支配下にある。

ソマリ族とその支族の分布。かつて列強が引いた国境線とは大きく異なっている。ソマリランド国民の多くはイサック氏族だが、ソマリランドが領有権を主張する東部のSSC地域にはダロッド氏族の住む地域があり、ダロッド氏族の建てたプントランドも領有を主張している。ただし旧イタリア領に住むマジェルテン支族とは異なる、ワルサンガリ、デュルバハンテという支族である

ソマリアはアジアからインド洋を通ってアフリカに向かう場合のアフリカの入り口に当たるため、古くから交易の中継地として栄えていた。この地域にはソマリ人が住んでおり、ソマリ人は今のソマリアだけでなく、エチオピア東部とケニア東部を含む広い範囲に分布している。19世紀、この要地にヨーロッパ列強が進出し、1887年イギリスが現在のソマリランドとSSC地域に当たる地域を保護領とし、続く1888年にはケニアを支配した。さらに1889年にはイタリアが現在のソマリア南部を保護領とし[2]1936年にはエチオピアがイタリアの支配下となった。その後1941年にエチオピアがイタリアの支配を逃れ、1960年に旧イギリス領ソマリランドがソマリランド国として独立、その5日後にイタリア信託統治領ソマリアと統合してソマリア共和国となった。1963年にケニアがイギリスから独立した。

1969年、クーデターでソマリアを支配したバーレ大ソマリア主義を唱えて本来のソマリ人の居住地域の回復を目指し、1977年に米ソ冷戦の代理の形でエチオピアと戦争をした(オガデン戦争)。ソマリアはこの戦争に敗れ、その後旱魃に襲われ、さらにはもともとソマリアには氏族同士の対立があったため、1980年代にソマリア内戦が勃発する。その後の1991年、北部のソマリランドが国際的に未承認ではあるものの安定地域として独立、次いで1998年プントランドが事実上独立した。

ソマリランドはソマリアからの完全独立を主張しているが、プントランドはソマリア国内が安定すれば最終的にはソマリアの一地域になることを主張しているという立場の違いがある。この紛争が起こった当時、ソマリア暫定連邦政府の大統領はプントランドの前大統領アブドゥラヒ・ユスフであった。

それぞれの主張

ソマリランドの主張

1991年に署名された「ソマリランド独立宣言」では、旧ソマリランド国の主要氏族全てが署名した、とされている

現在のソマリランド政府によれば、そもそもソマリランド国は1960年に旧イタリア信託統治領ソマリアと統一されてソマリアという一つの国になったわけではなく、あくまでも連合であり、ソマリア政府によるイサック虐殺英語版とその後のソマリア内戦を契機として、1991年に連合を解消しただけである。つまり、新生ソマリランドは旧ソマリランド国と同一であり、旧ソマリランド国の全てがソマリランド領であるとしている。

また、1991年のソマリランド独立宣言の時、主要氏族であるイサックだけではなく、旧ソマリランド国に住んでいた全ての氏族の同意を取り付けており、住民の同意という点でも東部紛争地域を含めて旧ソマリランド国の全てが網羅されていると主張している。

プントランドの主張

ソマリランドは1991年の独立宣言の後、イサック氏族同士の内戦状態となった。1993年にソマリランドのボラマで「国民和解大会議」が開催され、内戦が終結したが、1991年の時点ではソマリランドの設立に賛成していたワルサンガリ及びダルバハンテ氏族内ではそれぞれ、この会議に代表を送るべきかどうかで意見が割れた。そのため、1993年の署名にもワルサンガリ氏族やダルバハンテ氏族が署名した形にはなったが、実質的な参加率は低かった。また、内戦の後遺症で、1990年代のほとんどの期間、ソマリランドはスール地域東部、サナーグ地域南部を放置することになってしまった[3]:48

そんな中、ソマリア北東部では、ダロッド氏族主体でソマリア東北部に新しい国(プントランド)を設立する動きが生じ、ワルサンガリやダルバハンテの多くも参加した。そのためプントランド政府は、ワルサンガリ氏族やダルバハンテ氏族が住むいわゆるSSC地域はプントランド領であるとしている。プントランド憲法にも、これらの地域がプントランド領であることが明記されている。

その他の主張

プントランド・ソマリランド紛争地域であるいわゆるスール地域、サナーグ地域、アイン地域には、北東部にワルサンガリ氏族が、南部にデュルバハンテ氏族が住む。これらの人たちは、内戦中のソマリアで休戦協定が結ばれることは歓迎したが、その多くはソマリアからの分離独立には乗り気ではなかったとされている[3]:51。それが1998年のプントランド設立の一つのきっかけとなった[3]:56。しかしワルサンガリ氏族とデュルバハンテ氏族はプントランドにも満足せず、独自にソマリア連邦政府直下の自治政府を作ることを画策した。このため、この紛争においては、ソマリランド・プントランド両国の動きだけではなく、SSC地域の住民の動きにも注目する必要がある。

地域の状況

参考文献

関連項目

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