ヘルツェライデ・フォン・プロイセン

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プロイセン王女ヘルツェライデ(前列一番右の少女)と家族、1925年7月

ヘルツェライデ・フォン・プロイセンHerzeleide Prinzessin von Preußen, 1918年12月25日 ブリストードイツ語版 - 1989年3月22日 ミュンヘン)は、ドイツ・プロイセン王家の旧王族の子孫。最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の孫娘。

ヴィルヘルム2世の五男プロイセン王子オスカーとその妻のイーナ・マリー・フォン・バッセヴィッツ=レーヴェツォー女伯爵の間の第3子・長女。正式な洗礼名はヘルツェライデ・イーナ・マリー・ゾフィー・シャルロッテ・エルゼ(Herzeleide Ina Marie Sophie Charlotte Else)。両親の結婚は貴賤結婚とされたため王女と認められず、母及び2人の兄たちと同じくルピン(女)伯爵(Graf/Gräfin von Ruppin)の家名を名乗った。

ドイツ革命で祖父皇帝が廃位され、王家が統治者身分を喪失して間もない1918年のクリスマスに生まれたため[1]、楽劇『パルジファル』の登場人物でドイツ語の「心痛」を意味する「ヘルツェライデ」と名付けられた[2]。1920年6月21日、祖父の元皇帝がオスカー王子の妻子を王家の正式な成員と認めたため、母や兄たちとともにプロイセン王子・王女(Prinz/essin von Preußen)を姓として名乗ることになった。1938年1月9日、従姉フリーデリケ・フォン・ハノーファーとギリシャ王子パウロスの結婚式では、新婦のブライズメイドを務めた[3]

同じ1938年の8月15日、ヘルツェライデはポツダム衛戍教会で、カール・ビロン・フォン・クールラント侯子(1907年 - 1982年)と結婚した[2][4] 。夫はビロン家の当主グスタフ・ビロン・フォン・クールラントドイツ語版の長子で、18世紀末にロシアに併合されたクールラント・ゼムガレン公国の統治者の末裔だった。婚礼には花嫁の伯父である元ドイツ皇太子ヴィルヘルムや、義祖母のヘルミーネ・ロイスが出席した[2]。婚礼では男性出席者全員が旧第二帝国時代の軍服を着用した[4]。婚礼後、新郎新婦は新婚旅行に赴いたが、その際ヘルツェライデの祖父ヴィルヘルム元皇帝の住むドールン英語版を訪れて結婚報告の挨拶を済ませている[2][4]

ビロン夫妻は当初シュレージエン地方の夫方の居城グロース・ヴァルテンベルク城ドイツ語版に住んだが、第二次世界大戦末期、赤軍がシュレージエンを占領すると、これを避けてミュンヘンに居を構えた[5]

子女

引用・脚注

外部リンク

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