ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ
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| ヘルミーネ Hermine Reuß zu Greiz | |
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ヘルミーネ「皇后」 | |
| 出生 |
1887年12月17日 |
| 死去 |
1947年8月7日(59歳没) |
| 埋葬 |
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| 配偶者 | ヨハン・ゲオルク・フォン・シェーナイヒ=カロラート |
| ヴィルヘルム2世 | |
| 家名 | 兄系ロイス家 |
| 父親 | ロイス=グライツ侯ハインリヒ22世 |
| 母親 | シャウムブルク=リッペ侯女イーダ |
ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ(ドイツ語: Hermine Reuß zu Greiz, 1887年12月17日 - 1947年8月7日)は、ドイツ東部テューリンゲン地方の小諸侯兄系ロイス侯家の侯女で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の2番目の妻。夫の皇帝退位後に結婚したが、名目上のドイツ皇后およびプロイセン王妃の称号を使用した。
前半生
兄系ロイス侯ハインリヒ22世とその妻でシャウムブルク=リッペ侯アドルフ1世の娘であるイーダの間の第4子・三女。1891年に3歳で母を亡くしたため、皇帝ヴィルヘルム2世の叔母であるバーデン大公妃ルイーゼに引き取られて養育された。
1907年1月7日グライツで、シェーナイヒ=カロラート侯子ヨハン・ゲオルク(1873年 - 1920年)と結婚[1]。夫は1741年プロイセン王国の侯に叙爵されたシュレージエン地方の大貴族シェーナイヒ=カロラート家の分家筋の出[2]で、グリュンベルク郊外のザボール城の城主だった。この最初の結婚生活で5人の子に恵まれたが、夫は結核を病んで1920年に亡くなった。
元皇帝との再婚
父親が有名な反プロイセン主義者だったにもかかわらず、ヘルミーネは幼い頃からヴィルヘルム2世の熱烈なファンだった。娘時代の自室にも皇帝の絵を壁に飾り、皇帝について書かれた新聞記事の切り抜きや書籍を集めていた。母方叔父のシャウムブルク=リッペ侯子アドルフは皇帝の親友で、1890年に皇帝の妹ヴィクトリア王女と結婚して義兄弟ともなっていたため、皇帝とヘルミーネには姻戚関係もあった。
1921年4月、皇帝の妻アウグステ・ヴィクトリア皇后が亡くなると、ヘルミーネは末息子フェルディナントにお悔やみの手紙を書かせて皇帝に送った。皇帝は手紙に感謝し、ヘルミーネと息子をオランダの隠棲地ハイス・ドールンに招待した。
1921年9月上旬、ザボール城敷地内の庭園に2人の男性の乗った飛行機が墜落した。機体は若手パイロットのアントニウス・ラープが操縦し、アメリカ人ジャーナリストのシーグフリード・ダンバー・ウェイヤー(Siegfried Dunbar Weyer)が同乗していた。この「墜落」は実は一種の欺瞞作戦であり、インターナショナル・ニュース・サービス 通信員のウェイヤーが、退位したドイツ皇帝とザボール城の女主人ヘルミーネが結婚する予定だとの情報を聞きつけ、真偽を確かめるために仕掛けたものだった。ヘルミーネは男性2人の思惑通り2人を城に招き入れ、ウェイヤーはピアノの上に飾られたヴィルヘルム2世の写真を目撃した。ウェイヤーは自身の感じとった予感を確証するべく、皇帝とヘルミーネが結婚予定であるとの報道記事を出した。皇帝はこの新聞報道によって立場を明確にせねばならなくなり、報道から4週間後にヘルミーネとの婚約を発表した[3][4]。
ヘルミーネは婚約に際しいくつかの条件を提示していたが、結婚する1922年に2度、それぞれ2カ月間もドイツに戻って婚姻契約書を作成している[5]。
ヘルミーネとヴィルヘルムは1922年11月9日ハイス・ドールンで結婚式を挙げた。皇帝はロイス家の侯(フュルスト)=君主の息女であるヘルミーネとの婚姻が、プロイセン王家の家内法の定める同格出生の条件を満たしていることで非常に満足し、このことを誇示した。もし下級貴族や平民との再婚であれば、君主制支持者の支持や理解はごく一部にとどまり、結果として帝政復古の実現を遠のかせるおそれがあったためである。皇帝の存命中の6人の子女のうち、父親の婚礼に出席したのは長男ヴィルヘルムと次男アイテル・フリードリヒだけで、他は出席を拒否した。これとは対照的に、存命中かつドイツに残っていた皇帝の3人の弟妹たち、ハインリヒ、ヴィクトリア、マルガレーテはみな兄の再婚を祝福し、結婚式にも列席した[6]。
ヘルミーネ「皇后」
ヴィルヘルムはヘルミーネに対し敬意と親愛の情をもって接したが、実子たちの母親であり長年苦楽を共にした亡き最初の妻アウグステ・ヴィクトリア皇后と彼女を同列に扱うことは絶対にしなかった。皇帝と実子たちとの間柄はもともと良好とは言えなかったが、ヘルミーネの登場によってさらに悪化した[7]。ヘルミーネがハイス・ドールンの新しい女主人として家政を厳格に取り仕切るようになると同時に、夫である元皇帝の生活をすみずみまで管理するようになってしまったからである。
皇帝の最初の妻アウグステ・ヴィクトリアは皇帝とは半年違い(しかも妻が年上)で、多くのドイツ国民から愛され人気が高かった。しかし後妻のヘルミーネは資産家の若い未亡人で、皇帝とは28歳もの年齢差があり皇帝の上の息子3人よりも年下だったので、ドイツの君主制支持者たちは彼女との再婚に批判的だった[8]。
皇帝とヘルミーネは宮廷の儀礼作法を非常に重視していた。ヘルミーネは家中の者たちに自分のことを「帝室の妃殿下(Kaiserliche Hoheit)」の敬称を付けて呼ばせ、さらにしばしば「(皇后)陛下(Majestät)」、「ヘルミーネ皇后様(Kaiserin Hermine)」とも呼ばせた[9]。1929年ヘルミーネは「ヘルミーネ福祉事業団(Herminen-Hilfswerk)」を立ち上げた。事業団の活動はヴァイマル共和政の相次ぐ失策下で貧困にあえぐ人々や世界恐慌で仕事を失った人々から広く感謝された。
1927年唯一の男兄弟であった兄系ロイス侯ハインリヒ24世が男子後継者のないまま死去すると、男系の途絶えた兄系ロイス侯家の資産のうちザーレ河畔のブルク城だけが、ヘルミーネら存命中の4人の妹たちの共同相続分とされた。しかし1933年には、同城の所有権は末妹イーダとその夫のシュトルベルク=ロスラ侯クリストフ・マルティンに全て譲渡された。
ナチスとの関係
ヘルミーネは国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が君主制を復活させてくれることを期待していた。1926年にはアドルフ・ヒトラーに面会し、旧諸侯財産没収に絶対反対の立場を取るよう要望し、要望に応じてくれればヒトラーを高級貴族の一員として認めるとの条件も提示した。1927年ヘルミーネはベルリン旧宮殿の一部を宿所として整え、有力な帝政支持者だった元海軍副提督マグヌス・フォン・レーヴェツォーとともに、帝政復古への支持をできるだけ広げようと活動した[10]。
ヘルミーネはヒトラーの腹心ヘルマン・ゲーリングを1931年・1932年の2回ハイス・ドールンに招いた。彼女は夫の元皇帝にナチ党運動への参加を常に進言し、ナチ党との連携こそが帝位を取り戻すことのできる唯一の手段だとの考えを伝えた[11]。一方で、皇帝の長男の妻であり、高い人気を誇ってドイツの君主政支持運動の中心にいた元皇太子妃ツェツィーリエはナチ党と鋭く対立していたため、ヘルミーネの話を真に受けないよう義父の皇帝に忠告した[12]。
ヘルミーネは1933年のナチ党の権力掌握に歓喜し、翌1934年のレーム事件での粛清(皇帝はクルト・フォン・シュライヒャー元首相の暗殺時に妻のエリーザベト夫人も一緒に殺されたことに衝撃を受けた)すらも正しい決断だと信じきった[13]。しかし1935年には、ヘルミーネもナチ党による帝政復古の可能性を諦めた[14]。
ドイツ帰国
1941年6月4日ヴィルヘルム2世が死去すると、ヘルミーネはハイス・ドールンを去ってシュレージエンのザボール城に帰った。1945年の第二次世界大戦末期、赤軍の侵攻が迫ると、彼女は妹イーダ夫婦の住むハルツ山地のロスラ城へ避難した。
ヘルミーネは在独ソ連軍政府によって逮捕されたものの要人として扱われ、ソ連軍当局の監視下ではあるがフランクフルト・アン・デア・オーダー市内で特別待遇の生活を送ることができた[15]。彼女は収容所で亡命ウクライナ人の一家と一つの部屋を共同で割り当てられた。彼女が終戦後最初に耳にしたラジオニュースは、ヘルミーネ自身が収容所内で強盗に襲われ、身の回りのもの一切を奪い取られた、という誤報だった[16]。
ヘルミーネは1947年8月に扁桃腺ガンの進行が引き起こした心不全によって死去した[17][18]。遺骸はヴィルヘルム2世の先妻アウグステ・ヴィクトリアと同様に、ポツダムのサンスーシ宮殿庭園内にあるアンティーク・テンプルに安置された。生前、ハイス・ドールンにある皇帝霊廟のヴィルヘルム2世の墓の隣への埋葬を望んでいたが、叶うことはなかった。
子女
最初の夫シェーナイヒ=カロラート侯子ヨハン・ゲオルクとの間に3男2女を得た。
- ハンス・ゲオルク・ハインリヒ・ルートヴィヒ・フリードリヒ・ヘルマン・フェルディナント(1907年 - 1943年) - メレンドルフ(Mellendorf)領主、1939年ジビーレ・ツェトリッツ・ウント・ライペ女男爵と結婚し2子を得る、独ソ戦で戦死
- ゲオルク・ヴィルヘルム(1909年 - 1927年) - 早世
- ヘルミーネ・カロリーネ・ヴァンダ・イーダ・ルイーゼ・フェオドラ・ヴィクトリア・アウグステ(1910年 - 1992年) - 1936年フーゴー・ヘルベルト・ハルトゥングと結婚
- フェルディナント・ヨハン・ゲオルク・ヘルマン・ハインリヒ・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・アウグスト(1913年 - 1973年) - 大叔父のシェーナイヒ=カロラート侯子ハインリヒの相続人となりアムティッツ(Amtitz)領主となる、ローゼ・ラオホと結婚・離婚・復縁・離婚(1938年 - 1941年、1947年 - 1961年)、1963年マルガレーテ・フォン・ゼッケンドルフ女男爵と再婚、子なし
- ヘンリエッテ・ヘルミーネ・ヴァンダ・イーダ・ルイーゼ(1918年 - 1972年) - 1940年プロイセン王子フランツ・ヨーゼフと結婚(1946年離婚)
28歳年長だった2番目の夫ヴィルヘルム2世との間に子を得ることはなかったが、末娘ヘンリエッテが1940年に皇帝の孫であるフランツ・ヨーゼフ王子と結婚したことで、夫婦の共通の子孫が生まれた。この夫婦の長男フランツ・ヴィルヘルム王子は1943年に祖母ヘルミーネの居城ザボール城で生まれている。同王子の一人息子ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは旧ロシア帝室の次期家長となる予定である。
フィクション
- デヴィッド・ルボー監督のスパイロマンス映画『偽りの忠誠 ナチスが愛した女』(2016年)では、ジャネット・マクティアがヘルミーネを演じた。