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ハイス・ドールン

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ハイス・ドールン(ドールン館)(オランダ語:Huis Doorn)は、オランダ・ユトレヒト州ユトレヒト丘陵自治体(英語版)を構成する村落ドールン(英語版)に建つ小規模な城館(マナー・ハウス)。退位・亡命したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が1920年から1941年6月4日に死去するまで暮らし、庭園内の墓所にて死後も安らう地である。現在はオランダ政府所有の博物館となっている。

専門分野 国家的博物館(英語版)
歴史的邸宅博物館(英語版)
来館者数 25,000人 (2012年)[1]
54,000人 (2019年)[1]
館長 R.C. Robbertsen[2]
開館 1956年博物館として開館[3]
概要 Huis Doornハイス・ドールン, 施設情報 ...
Huis Doorn
ハイス・ドールン
Red brick front of the building with a stone bridge leading to the entrance
ドールン館(2010年撮影)
ハイス・ドールンの位置(ユトレヒト州内)
ハイス・ドールン
オランダ・ユトレヒト州内の館の位置
施設情報
専門分野 国家的博物館(英語版)
歴史的邸宅博物館(英語版)
来館者数 25,000人 (2012年)[1]
54,000人 (2019年)[1]
館長 R.C. Robbertsen[2]
開館 1956年博物館として開館[3]
所在地 オランダ・ユトレヒト州ユトレヒト丘陵自治体(英語版)ドールン(英語版)村ランクブローカー通り10番地(Langbroekerweg 10)[4]
位置 北緯52.0314度 東経5.3386度 / 52.0314; 5.3386
外部リンク www.huisdoorn.nl
プロジェクト:GLAM
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歴史

ハイス・ドールンの前庭、手前はマックス・ベッツナー(ドイツ語版)が制作した皇帝の胸像を1928年大理石製で複製したもの
ヴィルヘルムと2番目の妻ヘルミーネ、ハイス・ドールンで撮影、1933年
ヴィルヘルム2世の遺骸が収められた霊廟、皇帝の家族とその招待客しか入ることができない

ハイス・ドールンは1289年初めて史料に登場する[5][6]。もっとも最初期の建造物はすぐに破却され、14世紀に入って新たに建造物が築かれた[7]。この時期から1633年まではユトレヒト大聖堂首席司祭(英語版)の公邸であった。もともとは27m×37mの、濠を備えた(水城)方形城郭(英語版)であった。三方はそれぞれ囲壁でつながった3つの防衛用円塔が立ち、北東に長方形の住居用主塔があり、その対角線上の南西に庭園が広がっていた。1350年以前に、城門はより大規模な楼門(ゲートハウス)に変えられ、長方形の付属建物がこれに付け加わった。その後、城は荒廃したが、1633年ゴルトシュタイン家(ドイツ語版)のレイニール・ファン・ゴルトシュタイン(Reinier von Goltstein 1641年没)が買い取って改築・再建した。

館は18世紀に現在の近世型城館の姿になった。館は3つの翼(ウィング)で構成され、各翼の各階には5つから6つの対称軸(ドイツ語版)窓が取り付けられた。そして小規模だが城館前庭部(クール・ドヌール(英語版))も据えられた。長方形の濠に囲まれた館は、全体が煉瓦造りだった。当時の館は、中庭も外庭周辺のいずれにも泥が堆積していた。現在の館内の装飾や家具調度品は19世紀に購入され揃えられたものである。庭園も19世紀初めにイギリス式庭園にデザインされたが、その後の所有者たちによって一部は疎林庭園(英語版)に変えられた[8]。

1902年、ファン・ヘームストラ家(オランダ語版)のウィレム・ファン・ヘームストラ(オランダ語版)男爵(1841年 - 1909年)と、デ・ボーフォールト家(オランダ語版)出身のその妻ウィルヘルミナ・コルネリア・ファン・ヘームストラ男爵夫人(1843年 - 1927年)が、ハイス・ドールンを購入して住まいとした。夫妻の孫娘で女優オードリー・ヘプバーンの母親であるエラ・ファン・ヘームストラは、幼少期を同館で過ごした[9]。

1918年11月9日、ドイツ帝国宰相マックス・フォン・バーデンの独断専行によりドイツ皇帝退位(英語版)宣言が発せられたとき、皇帝ヴィルヘルム2世はドイツ陸軍大本営の置かれていたベルギー・リエージュ州スパのオテル・ブリタニーク(オランダ語版)にいた。ヴィルヘルムは正式な退位の手続きなど何もしないまま、翌11月10日には庇護権の提供を申し出てくれたオランダ政府を頼り、国境を越えて中立国オランダの領内に亡命した。皇帝はまずアルデンブルク=ベンティンク家(ドイツ語版)のゴダート・ファン・アルデンブルク=ベンティンク伯爵(1857年 - 1940年)の邸宅アメロンゲン城(ドイツ語版)に滞在し、11月28日この城で退位文書に署名した。

1919年、皇帝はアメロンゲン城の敷地に隣接するドールンの館と地所を、ウィルヘルミナ・コルネリア・ファン・ヘームストラ男爵未亡人から50万ギルダーで買い取り[10]、1920年には元皇帝とその家族の住居に相応しい姿に改装して、この城へ移った。

旧諸侯財産没収(ドイツ語版)に伴い、ホーエンツォレルン王家はドイツ国内に所有していた70もの城のすべてを没収されたが、諸城内に置かれていた動産についてはかなりの程度、個人・家族の私有財産として保持が認められた。そのためヴィルヘルム2世はそれらの動産をドールンへ運び込ませた。主として家具調度品、美術品、一族の書き溜めてきた回想録類からなる運び込まれた動産は、実に鉄道貨車59両分にのぼった。ベルリン王宮から持ち出された美術品のうちの一部は、現在もドールンに保管されたままになっている[11][12]。館内の部屋部屋には現在、皇帝の美術品のうち芸術的価値が高いと認められた12作品が厳選されて展示されている。これらは主として18・19世紀の作品である。

ヴィルヘルム2世はドールンに中世風の楼門とバラ園を新たに造営した。館は35ヘクタールもの大規模な城庭園(シュロスパーク(ドイツ語版))に取り囲まれており、庭園もまた隣り合う広大な森林に取り巻かれていた。この庭園の規模の大きさと立地こそが、元皇帝夫妻がドールンの城館を購入した決め手だった。ドールンでの暮らしの中で、ヴィルヘルムが体を動かす活動としてとりわけ好んだのは、木の伐採と鋸仕事だった。クリスマスの時期になると、皇帝が伐り倒した木々はドールンの貧しい住民たちに分け与えられた[13]。

ドールンでの亡命生活は皇帝が亡くなるまで続き、21年の長きにわたった。オランダ政府はヴィルヘルムに、ドールン館の半径10km以内でのみ自由行動を許可するとしており、皇帝が移動制限に違反すると地元の役人が警告しに来た[14]。ヴィルヘルムの昔の政敵たちは落魄した彼を「ドールンの木こり」と呼んであざけった[9][10][15]。皇帝がオランダの庇護を得られたのは、もっぱら自身の家族とウィルヘルミナ女王との幾重にも及ぶ縁戚関係のおかげだったが、女王本人は皇帝を嫌って一度たりとも会おうとしなかった[10]。1938年に皇帝が30名を超える外国王族を招待して、嫡孫ルイ・フェルディナントの盛大な結婚式をドールンで挙げさせた際も、娘のユリアナ王女を遣わしただけだった[16]。

ヴィルヘルムの長年連れ添った妻アウグステ・ヴィクトリア元皇后は、ハイス・ドールンへ越して間もない1921年4月に死去した[9][17]。翌1922年11月、皇帝はヘルミーネ・ロイス侯女と再婚し、彼女は皇帝が亡くなるまでドールンの女主人として館を切り盛りした[9]。ヘルミーネは1927年、ドールンでの皇帝との暮らしを綴った小自伝を発表した[18]。

1931年及び1932年、皇帝はヘルミーネの勧めでナチ党のヘルマン・ゲーリングをドールンに招いたが[19]、2度の会談はいずれも不毛な結果に終わり、ヴィルヘルムのゲーリングに対する嫌悪感を強めるだけに終わった[10][20]。皇帝は反ユダヤ的な感情を抱いていたものの、ヴァルター・ラーテナウらユダヤ人の友人たちに加えられた反ユダヤ主義的暴力に反発し[20]、1938年の水晶の夜事件の発生にも憤った[19]。

第二次世界大戦が勃発すると、ドールンは3000名の兵を擁するオランダ軍部隊の駐屯地になった。1940年5月10日、ドイツのオランダ侵攻(ドイツ語版)が発生すると、ヴィルヘルムとヘルミーネは当初、敵性外国人としてオランダ当局により城塞拘禁(ドイツ語版)されるのではないかと心配した。実際、夫妻はオランダ当局の指示で短期間自宅軟禁状態に置かれ、館の家臣団のうち従者2名と料理人1名が北ホラント州の収容施設に連行された。しかし1940年5月14日には、総統アドルフ・ヒトラーの元皇帝宛書状を携えたドイツ軍部隊がドールンに到達し、館の楼門に秘密野戦警察による警護体制を敷いたので、ヴィルヘルムはこの計らいに大変喜んだ[21][22]。皇帝夫妻及び使用人たちは戦時中でも平時と変わらぬ暮らしを続け[22]、ドイツ将校たちは皇帝の地所への出入りを厳しく禁じられた[19]。

ヴィルヘルムは自分の埋葬場所として、外国人たちの間で眠ることも、共和国となったドイツに帰ることも望まなかったため、ドールンの庭園内に霊廟を建てさせた。ドイツで帝政復古が成就した暁には自分の棺をドイツへ帰すようにとの遺言を残して、皇帝は1941年6月4日に死去し、遺骸はドールンの霊廟に納められた[23]。もう一つの遺言は、自分の葬儀に際して鉤十字旗の半旗掲揚を禁じるとする指示だった[10]。

ヴィルヘルム2世はダックスフントの愛好家として知られた(若い頃飼っていたエルトマン(ドイツ語版)への愛情は有名である)が、ドールンでも、1927年に20歳の長寿を全うしたゼンタを始めとする5頭のダックスフントが、飼い主の皇帝によって手厚く葬られた[24]。

第二次世界大戦終結後、オランダ政府は敵性外国人の資産としてドールンの館と地所を没収した[25][26]。ホーエンツォレルン王家はドールンの返還を求めて裁判を起こしたが、1949年第二審で敗訴した。オランダの裁判所は狭量にも、政治的立場として親オランダ的でも反ナチス的でもなく、これまでオランダ国内に常住したこともないことを理由に、「敵国人の弁明(„Entfeindungserklärung“)」であるとして原告のヴィルヘルム元皇太子の出廷を認めなかった[27]。

博物館

1953年、ハイス・ドールン管理財団が設立され、館とその付属資産の管理権を委譲された。1956年、財団は「亡命皇帝が余生を送った史跡として」ドールンを歴史的邸宅博物館(英語版)及び庭園としてオープンし[3]、収益を得るようになった。庭園は1945年のオランダ政府接収直後から再植樹が繰り返され、疎林庭園から以前のイギリス式庭園に近い状態に戻った[28]。1997年、ハイス・ドールンはオランダ国家遺産に登録された[7]。

ハイス・ドールンと付属庭園は観光客に公開されている。博物館(ハイス・ドールン)は全面的に公開されている。観光客は庭園に正門から入場できる。ハイス・ドールン館内にはヴィルヘルムが生前使用していた日用品や愛賞した美術品が展示されており、かつて帝王として君臨した者の暮らしを偲ばせる。

ヴィルヘルム2世時代のハイス・ドールンは小宮廷が営まれ、城主とその奥方それぞれの起居する翼、正餐の間、謁見の間、副官の駐在室、広い厨房、城庭園、そして霊廟があった。館はその大部分が1941年に皇帝が亡くなった時の状態を維持している。見学者は元皇帝とその2人の妻たちの当時の暮らしぶりを知ることができる。この他、フリードリヒ1世の初代プロイセン王としての戴冠式の様子を描いた絵画、フリードリヒ2世大王がサンスーシ宮殿で友人たちに囲まれている姿を描いた絵画、大王遺愛の軍服や皇帝が集めた嗅ぎ煙草入れ(タバティエール(ドイツ語版))のコレクション[29]、皇帝の外祖母ヴィクトリア英国女王からの手紙、ノルウェー・フィヨルドの風景水彩画やその他の帝政ドイツ時代の記憶を想起させる品々が展示されている。

毎年6月になると、トラディツィオーン・ウント・レーベン(英語版)を始めとするドイツの君主制支持団体が皇帝に花を手向けようとドールンを訪れる[15]。

ホーエンツォレルン家にはドールンの地所の中で皇帝霊廟のみが資産として残された。霊廟には一族だけが立ち入りを許可され、手入れや補修などの管理を行っている。同家はハイス・ドールンの正統な所有者としての立場をオランダ政府に主張し続けているが、所管のオランダ教育・文化・科学省(英語版)はこの主張を認めていない[30][31]。

参考文献

  • Huis Doorn (Hrsg.): Kaiserliche Exilresidenz – Huis Doorn. Doorn 2014, ISBN 978-90-821831-1-5.
  • Jörg Michael Henneberg: Der Tod Kaiser Wilhelms II. am 4. Juni 1941 in Huis Doorn (= Wilhelminische Studien. Band 7). Gesellschaft für wilhelminische Studien, Wilhelmshaven 2008.
  • Sigurd von Ilsemann: Der Kaiser in Holland. Aufzeichnungen aus den Jahren 1918–1941. Deutscher Taschenbuch Verlag, München 1951, ISBN 3-423-00791-5.
  • Ben Olde Meierink: Burgen von Pröpsten und Kanonikern in den Niederlanden. In: Burgen und Schlösser, Zeitschrift für Burgenforschung und Denkmalpflege 1/2014, S. 28 ff.
  • Friedhild den Toom: Wilhelm II. in Doorn. 3. überarbeiteter Auflage. Doorn 2013, ISBN 90-90-15748-4.
  • Andreas Felmeden: Ein Augenzeugenbericht über die Beerdigung des früheren Kaisers und Königs Wilhelm II. in Haus Doorn am 9. Juni 1941. In: Orden und Ehrenzeichen Nr. 82, Dezember 2012, S. 355–340; Zeitschrift der Deutschen Gesellschaft für Ordenskunde e. V.

引用・脚注

外部リンク

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