ベルンハルト2世は、リューネブルク、フェルデン、メレンベック、ミンデン、ヘルフォルト、ケムナーデ(ホルツミンデン)およびフィッシュベックのフォークトであり、フリースラントについても伯爵の権利を持っていた。
1002年7月、国王選挙後にメルゼブルクで行われた集会において、ドイツ王ハインリヒ2世はザクセン法を尊重することを約束し、ベルンハルトはハインリヒ2世に聖槍を手渡した。
後に、ポーランドと対立していた皇帝ハインリヒ2世をベルンブルクはわずかに支援しただけで、1018年に「バウツェンの和約」の仲立ちをした。
1019年または1020年にベルンハルトは反乱を起こし、全ての民族の権利を認めさせた。
オボトリート族の長ゴットシャルクの支援を受け、再び帝国に近づいたスラヴ人と連携した。1024年にベルンハルトはコンラート2世のドイツ王位を認めた。
ベルンハルトはシュターデ伯およびヴェルル伯とは対立していた。またブレーメン大司教やザクセンの司教、特に1043年以降はブレーメン大司教アーダルベルトとも対立し、弟の死の原因がアーダルベルトにあるとした。弟ティートマールは皇帝ハインリヒ3世の企てにより1048年に暗殺されたといわれている。
1024年から1025年の間に、ベルンハルトはハンブルクに新城を築いた。ベルンブルクは1059年に死去し、リューネブルクのカルクベルク上に建つ聖ミヒャエル修道院の教会に埋葬された。