ペラゴニアの戦い
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| ニカイア・ラテン戦争 エピロス・ニカイア紛争中 | |||||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||||
| ニカイア帝国 | |||||||||
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ペラゴニアの戦い(またはカストリアの戦い)[1]とは、1259年の初夏あるいは秋、ニカイア帝国と、エピロス専制侯国・シチリア王国・アカイア公国からなる反ニカイア同盟との間で戦われた会戦である。この戦いは東地中海の歴史における決定的な転換点となり、ギリシャ勢力による1261年のコンスタンティノープル奪還とラテン帝国の終焉を決定づけた。
バルカン半島南部で勢力を強めるニカイアと、コンスタンティノープル奪還を期すその支配者ミハイル8世パレオロゴスの野望に対し、エピロスのミハイル2世コムネノス・ドゥーカス、アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン、そしてマンフレーディらによる連合が結成された。戦いの詳細な日付や場所については史料に矛盾があり、現代の学説では7月あるいは9月、ペラゴニア平原またはカストリア近辺と推測されている。戦闘に至る過程では、エピロスのギリシャ勢とラテン勢の間に潜んでいた不和が表面化した。これはミハイル8世の工作員によって煽られたとも言われる。結果として、エピロス軍は戦闘前夜に同盟を放棄して撤退し、ミハイル2世の庶子ヨハネス1世ドゥーカスにいたってはニカイア陣営に寝返った。孤立したラテン勢はニカイア軍に襲撃され、壊滅。ギヨーム2世を含む多くの貴族が捕虜となった。
この勝利により、1261年のコンスタンティノープル奪還と、パレオロゴス朝のもとでのビザンツ帝国再興を阻む最後の障害が取り除かれた。また、ニカイア軍は一時的にエピロスとテッサリアを征服したが、後にミハイル2世らがこれを奪い返した。1262年、ギヨーム2世はモレア半島南東端の3つの要塞を引き渡す条件で釈放された。この拠点は後に拡大し、次世紀にはモレア専制侯国へと発展していくことになる。
1204年のコンスタンティノープルの陥落によりビザンツ帝国が崩壊した後、帝国の正統な継承者を自称したのは小アジア西部のニカイア帝国と、ギリシャ西部のエピロス専制侯国であった[2]。両国はどちらが先にコンスタンティノープルを奪還するかを巡り、根深いライバル関係にあった[3][4]。ニカイア皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位1222–1254)がマケドニアを征服したことで、ニカイアは大きな優位を得た[5]。これにより、マケドニア西部のペラゴニア地域は、ニカイアとエピロスの領土が接する境界地帯となった[6]。
1254年にヴァタツェスが没すると、エピロスの支配者ミハイル2世コンネノス・ドゥーカス(在位1230–1268)は、マケドニアで反ニカイアの反乱を煽動して侵攻。プリレプの要塞を奪い、ニカイアの総督で歴史家でもあるゲオルギオス・アクロポリテスを捕らえた[7][8][9]。しかし、ミハイル2世によるテッサロニキへの進撃は、シチリア王マンフレーディ(在位1258–1266)がアルバニアに上陸し、その大半とコルフ島を奪ったことで中断された。かつてのノルマン人のシチリア王たちと同様、マンフレーディもまたコンスタンティノープルを含むバルカン半島に野心を抱いていた。また、ヴァタツェスの未亡人で自身の異母姉であるコンスタンツェがニカイア宮廷に留め置かれていることも、彼の不満を募らせていた。ミハイル2世は、長女エレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナの持参金としてアルバニアとコルフ島を差し出すことを提案し、マンフレーディはこれに応じた[7]。ミハイル2世はさらに反ニカイア同盟を広げ、次女アンナ・コムネネ・ドゥーカイナを、南ギリシャの諸ラテン国家(アテネ公国やネグロポンテ三頭政治国)の盟主であるアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン(在位1246–1278)に嫁がせた[7][8][10]。加えてミハイル2世はセルビア王ステファン・ウロシュ1世(在位1243–1276)の支持を取り付けた[8][10]。一方、ヴァタツェスの息子でニカイア皇帝後継者のテオドロス2世ラスカリス(在位1254–1258)は、第二次ブルガリア帝国コンスタンティン・ティフ(在位1257–1277)に娘イリニ・ラスカリナを嫁がせ、同盟を図った[7]。しかしテオドロス2世はエピロス遠征を前に急逝し、幼い息子ヨハネス4世ラスカリス(在位1258–1261)が跡を継いだ。その後すぐに野心的な貴族ミハイル8世パレオロゴスが摂政となり、次いで共同皇帝として権力を掌握した[7][11]。
ニカイア軍のエピロス遠征

ミハイル・パレオロゴスは、歴史家ドナルド・ニコルが言うところの「テッサロニキのみならずコンスタンティノープルの領有すら脅かしかねない」強力な同盟に直面した[12]。しかしミハイルは猶予を与えなかった。早くも1258年の秋、弟のセバストクラトルのヨハネス・パレオロゴスと、総司令官のアレクシオス・ストラテゴプロスが率いる軍をヨーロッパへと送り出し、マケドニアで冬を越しながら現地軍を合流させた[13]。同時にミハイルは、主要な同盟三勢力のそれぞれに個別の使節を送り、外交によって切り崩しを図った。しかし、対ニカイア攻勢で敵方が得られる利益は大きく、この工作は失敗に終わった[12]。
1259年春、ニカイア軍は攻勢に転じ、エグナティア街道に沿って西へと急進した。カストリアに駐屯していたエピロスのミハイル2世はこの電撃的な進撃に不意を突かれた。ニカイア軍がヴォデナの峠を越えて目前に迫ると、ミハイル2世は同盟者マンフレーディが支配するアヴロナ付近を目指し、ピンドス山脈を越えて退却を余儀なくされた。そこでマンフレーディと娘エレナの婚礼交渉が決着し、1259年6月2日にトラーニで式が挙げられた。夜通し続いた退却戦の中で、エピロス勢は険しい山道で多くの兵を失ったと伝えられる一方、ニカイアの将軍たちはオフリドやデヴォルといった都市を次々と陥落させた[14][15]。
両軍の兵力
領土の多くを失ったエピロス専制侯であったが、すぐにラテン人の同盟者たちが救援に駆けつけた。マンフレーディはイタリア中部のゲルフとの抗争に忙殺されていたため自身は出陣しなかったが(ニケフォロス・グレゴラスらは誤って本人の参戦を記録している)、見事な装甲を施した400人のドイツ人騎士を送り込んだ。彼らはアヴロナに上陸し、ミハイル2世の軍に合流したとされる[16]。対照的に、ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンは自ら全軍の先頭に立った。『モレア年代記』のギリシャ語版およびフランス語版によれば、アカイア、アテネ公国、ネグロポンテ、群島公国の諸軍がギヨームの下に集結した。これはアカイア公の封臣であるギリシャ内の全フランク国家から封建動員がなされたことを意味する。フランク系ギリシャの著名な貴族たちの多くがこの遠征に加わった。アカイア軍はナフパクトスでコリントス湾を渡り、エピロスの首都アルタへ行進した後、ピンドス山脈を越えてタラシオノン(おそらく北テッサリアのエラソナ)にて他のフランク諸国軍と合流した[17]。エピロス軍にはミハイル2世の長男ニケフォロスが付き従い、さらに庶子ヨハネス1世ドゥーカスがテッサリアの「大ブラキア地域から多数のブラフ人を率いて加わった[18]。アラゴン語版のモレア年代記では、ギヨームの軍は重装兵8,000と軽装兵12,000、エピロス軍は重装兵8,000と軽装兵18,000と記されているが、現代の歴史家はこれらを著しい誇張とみなしている[10][19][20]。
ニカイア側は、小アジア、マケドニア、トラキアの地元ギリシャ人部隊だけでなく、多国籍な傭兵団を擁していた。『モレア年代記』[注釈 1]によれば、精選された300人のドイツ人騎士、1,500人のハンガリー人弓騎兵、600人のセルビア人騎兵[注釈 2]、ブルガリア騎兵に加え、1,500人のトルコ人、そして2,000人のクマン人騎兵がいたとされる[10][22][21]。年代記はドイツ人部隊を「ケルンテン公」が率いていたと記している。当時の公爵はウルリヒ3世であったが、彼はその後も長年統治を続けており、この戦いでカリタイナ領主ジョフロワ・ド・ブリエに討たれたという年代記の記述とは矛盾する。ギリシャ語版の校訂者ペトロス・カロナロスは、この「ケルンテン公」は勇猛な戦士を象徴する架空の人物であり、名称は「カリタイナ」が訛ったものではないかと推測している[23][24]。また、明記はされていないものの、ニカイア側にもラテン人部隊が含まれていた可能性が高い。彼らは以前の軍制における主力であり、ミハイル・パレオロゴスの権力奪取を支えた勢力でもあったからである[25]。ニカイア軍の総数は不明であるが[26]、ギリシャ語版年代記は27個の連隊(アッラギオン)で構成されていたと言及している[27]。歴史家デノ・J・ギアナコプロスは「年代記の記述はしばしば誇張されている」としつつも、「連合軍がニカイア軍を数で上回っていたという印象を史料から受ける」と述べている[28]。
史料による相違
主要なビザンツ側の史料であるゲオルギオス・アクロポリテス、ニケフォロス・グレゴラス、およびゲオルギオス・パキメレスは、戦闘に至る経緯と経過についてかなり異なる記述を残している[29]。一方で、西方側の史料、特に『モレア年代記』の各言語版やヴェネツィアのマリノ・サヌード・トルチェッロの歴史書もまた、ビザンツ側の記述や相互の間で食い違っている。年代記の物語は誤りや混同が多く、一般に信頼性は低いとされるが、他には見られない詳細な描写を含むことがある[30][31]。年代記の記述はアカイア公ギヨームではなく、その甥であるジョフロワ・ド・ブリエに焦点を当てている。彼の武勲はアキレウスやディゲネス・アクリタスを謳った当時の叙事詩のような文体で長く語られ、ギヨームについては付け足し程度にしか言及されない。ブリエは初代アカイア公ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンの唯一の父系孫であり、公国の潜在的な継承権保持者であった[注釈 3][33]。
アクロポリテスはニカイア側の知略を強調し、彼の記述は「戦場での二軍の激突というよりは、街道上での一連の小競り合い」として描かれている[34]。これにより「連合軍の敗北は速やかかつ不名誉なものであった」という印象を与える[35]。対して、年代記はこれを英雄的だが悲劇的な戦闘として描こうと腐心しており、ニカイア軍の数を誇張し、シチリア部隊への言及を避け、連合軍の不和を広めたニカイア工作員の役割を強調している[35]。グレゴラスとパキメレスは、概ねアクロポリテスの記述を踏襲しつつも、年代記に見られる「工作員の役割」や「アカイア貴族の勇猛な振る舞い」といった要素も含んでいる[36]。
こうした史料の相違により、戦闘の正確な日付(6月から11月まで諸説あり)、場所(ペラゴニアかカストリアか)、そして各指導者が果たした役割など、多くの詳細が不明なままである[37]。日付に関しては、ドナルド・ニコルによる初夏(7月)説と、ギアナコプロスによる初秋(9月頃)説が有力である[38][39]。正確な場所についても、史料にある唯一の明確な地名「ボリルの森(Βορίλλα λόγγος)」が、現代の研究者によってプリレプ、カストリア、あるいはビットラ(当時のペラゴニア)付近と様々に比定されている[40]。地形と軍の動きを再構成した研究では、フライデリコス・ロホンツィスとロバート・ミハイロフスキが独立して、カストリア北方のフロリナとカニマクチャラン山の間の平原、現代のヴェヴィ(旧名バニツァ)付近を戦場と推定した。ここは紀元前423年のリュンケスティスの戦いや、1941年のヴェヴィの戦い (1941年)が戦われた戦略上の要衝である[41][42]。
戦闘の経過
アクロポリテスによれば、両軍の最初の接触はボリルの森で起こった[44][45]。数で劣るニカイア軍は、敵連合の結束を乱すための策略を巡らせる必要があった[46]。エピロスのギリシャ勢は、第4回十字軍の記憶やフランク支配下での正教徒への抑圧から、ラテン人を深く憎んで疑っていた。対するラテン勢も、ギリシャ人を卑怯で狡猾な「分裂派」と見下していた[47]。
セバストクラトルのヨハネス・パレオロゴスは、直接対決を避けつつ敵の戦意を削ぐ徹底した消耗戦略を採用した[41]。これは遠征の当初からミハイル・パレオロゴスが弟に授けていた計略であったとアクロポリテスは記している[48]。ヨハネスは重装歩兵を丘の上の強固な陣地に配置し、クマン人、トルコ人、ギリシャ人の軽装兵を用いて連合軍への波状攻撃を繰り返した。馬の給水時を狙った襲撃や補給列の略奪が絶え間なく行われた。この嫌がらせに晒され、エピロス軍の士気は崩壊。ミハイル2世はプリレプへと退却し、庶子ヨハネス・ドゥーカスにいたっては同盟を捨ててニカイア陣営へ投降した[49][50]。
一方、グレゴラスの記述では、ミハイル2世の逃走はヨハネス・パレオロゴスが放った「偽の脱走兵」による計略であったとされる。その工作員は「フランク勢が金銭と引き換えにエピロス勢を裏切る密約をセバストクラトルと結んだ」という偽情報を流した。これを信じ込んだミハイル2世は直ちに軍の一部を連れて逃亡し、それを知った残りのエピロス軍も霧散したという[44]。パキメレスはさらに異なる話を伝えている。連合軍内で一部のアカイア騎士がヨハネス・ドゥーカスの美しいブラフ人の妻に懸想したことで不和が生じていたという。ギヨーム2世がその部下を罰しなかったばかりか、ヨハネス・ドゥーカスを「庶子」と侮辱したことで決定的な亀裂が生じた。怒りに燃えるヨハネスはニカイア軍と通じ、父と異母兄の安全を保証させた上で、彼らに夜陰に乗じての撤退を促したとされる[51]。ギヨームがヨハネスを侮辱したという記述は、マリノ・サヌードの記録とも一致している[52]。
いずれの経緯を辿ったにせよ、翌朝ラテン勢がエピロス軍の逃走に気づいた時には、時すでに遅かった。ニカイア軍は撤退を試みる彼らに襲いかかり、パキメレスによればヨハネス・ドゥーカス率いるブラフ兵も背後から加わった。多くのラテン人が戦死し、生き残った者の大半が捕虜となった。グレゴラスによれば、400人のドイツ兵はわずか4人のニカイア将兵に降伏し、ギヨーム2世の軍勢は四散した。アカイア公自身は、カストリア近くの干草の山(アクロポリテス説)あるいは茂み(パキメレス説)に隠れているところを発見された。彼とともに30人ほどの有力な男爵たちが捕縛された[29]。
『モレア年代記』は人物関係を混同しており、ニカイア軍の司令官を「テオドロス・ドゥーカス(ヨハネスの誤り)」、エピロス軍をニケフォロスが率いていたとしている。年代記によれば、ニカイア側は多数のかがり火を焚き、牛の群れを動かして大軍の行軍を偽装することで敵を威嚇し、工作員を送ってニカイア軍が圧倒的大軍であると信じ込ませた。この計略によってエピロス軍は夜間に逃走し、勢いづいたニカイア軍はアカイア軍を迎え撃った。ジョフロワ・ド・ブリエ率いる先陣はニカイア第一陣のドイツ人騎士を圧倒したが、セバストクラトルはハンガリー人やクマン人の弓騎兵に命じてフランク兵やドイツ兵の「馬」を無差別に射るよう命じた。馬を失った騎士たちは落馬し、降伏を余儀なくされたという[54][55]。
ギアナコプロスによれば、細部は異なるものの、これらの記録を統合することで戦闘の全容を理解することができる。決定的な転換点となった「戦闘前夜のミハイル2世の逃走」は、ニカイアの策略がなくとも十分に説明がつく。エピロス専制侯は強力なフランク軍の存在を危惧しており、もし同盟軍が勝利すれば自分の領土がラテン人に奪われるのではないかと恐れていた。戦闘前のギヨームと息子ヨハネスの衝突は、その懸念を裏付けるものだった。逆にニカイアが勝利すれば自らの地位も命も危うくなる。この板挟みの結果、彼は逃走を選んだと考えられるのである[56]。
その後

この戦いはその後のバルカン半島の歴史において決定的な出来事となった[38][57][58]。エピロス・ラテン同盟が崩壊したことで、ミハイル・パレオロゴスはコンスタンティノープル奪還とビザンツ帝国再興へ向けて邁進することが可能となった。残存するラテン帝国はあらゆる援助から遮断され、有能な防衛者であったギヨーム・ド・ヴィルアルドゥアンの不在は致命的となった[5][59]。早くも1260年、ミハイルはコンスタンティノープルの奪還作戦を敢行した。これはペラゴニアで捕虜となった騎士の一人が、城壁内にある自邸の門を開けると約束したためであった。結局その約束は果たされず、ミハイルは代わりにガラタへの攻撃を試みたが失敗に終わった[60][61]。コンスタンティノープルは1261年7月25日、アレクシオス・ストラテゴプロスの部隊によって(偶然にも)コンスタンティノープル奪還が果たされ、パレオロゴス朝の下でビザンツ帝国が再興された[62][63]。
ペラゴニアでの勝利により、ニカイアはギリシャ国内で一時的な領土拡大に成功した。ヨハネス・パレオロゴスはテッサリアとアテネ公国へ侵攻し、テーベまで進軍した。一方でアレクシオス・ストラテゴプロスとヨハネス・ラウル・ペトラリファスは、ピンドス山脈を越えてエピロス本国を制圧する任務に当たった。彼らはヨアニナを包囲下に置いて通過し、エピロスの首都アルタを占領。ミハイル2世をケファロニア島へと逃亡させた。アルタにおいて彼らは、アクロポリテスを含む多くのニカイア人捕虜を解放した[64][65]。しかし、翌年にはニカイアの成功はほぼ無に帰した。ヨハネス・ドゥーカスが再び父ミハイル2世側に寝返り、ミハイル2世もイタリア人傭兵を率いてアルタに上陸。エピロスの住民がこれに呼応したため、ニカイア軍は敗走し、ストラテゴプロス自身も捕らえられ一時的に拘束された[64]。
アカイア公国にとって、この敗北はあまりにも重い一撃であった。公国が経験した史上初の壊滅的な敗北であり、一撃で兵力の大部分と多くの貴族を失った。公のほかに、近親者のアンセリン・ド・トゥシーやジョフロワ・ド・ブリエも捕虜となった[66]。これにより、モレア半島全土がミハイル・パレオロゴスの野心にさらされることとなった。皇帝は当初、ギヨーム2世らに対し、公国自体を差し出すならば釈放し、優遇すると持ちかけた。ギヨームはこれを拒否したが、コンスタンティノープル陥落後の1262年初頭、いくつかの要塞の引き渡しとパレオロゴスへの忠誠の誓いと引き換えに自由を得た。これは、アカイアの男性貴族の多くが捕虜であったため開かれた、いわゆる「婦人議会」によって批准された。その結果、モネンバシア、ミストラスの砦、およびマニ半島一帯がビザンツ側へ引き渡された[67][68]。以後、ビザンツはこの拠点を足がかりにアカイア征服を繰り返したが、完全な征服には至らなかった[注釈 4]。しかし、これらの戦いはアカイア公国を極限まで疲弊させた[71][72]。長期的には、この時ビザンツが獲得した拠点がモレア専制侯国の中核となり[38][73]、オスマン帝国に征服されるまでビザンツ文化の最後の花を咲かせることになった[74][75]。
ペラゴニアでの敗北は、フランク系ギリシャ諸国におけるアカイア公国の優位に終止符を打ち、その後のビザンツの攻勢によって政治的独立性も損なわれた。再興したビザンツに対抗する力を失ったギヨーム公は、マンフレーディの死後のシチリアの覇者、ナポリのアンジュー家に助けを求めた[76]。共通の敵を前に、エピロスやテッサリアのギリシャ人支配者たちもこれに倣った[77]。その結果として1267年にヴィテルボ条約が結ばれ、歴史家ピーター・ロックの言葉を借りれば、「エーゲ海のフランク諸国は、もはや独自の領地ではなく、ナポリ・アンジュー王国の実質的な辺境領となった。彼らはナポリの視点から見た地中海の権力政治に組み込まれていったのである」[78]。