ペーテル・フォルスコール

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ペーテル・フォルスコール
生誕 1732年1月11日
スウェーデンヘルシンキ(現フィンランド
死没 1763年7月11日(31歳没)
イェメン、ヤリム
国籍 スウェーデン
出身校 ウプサラ大学ゲッティンゲン大学
職業 探検家・博物学者・東洋学者・哲学者・植物学者・動物学者
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ペーテル・フォルスコールスウェーデン語: Peter Forsskål1732年1月11日1763年7月11日)は、スウェーデン生まれ(フィンランド系)の探検家・博物学者・東洋学者・哲学者。カール・フォン・リンネの弟子(使徒)の一人として知られ、1761年から1763年にかけてのデンマーク王立アラビア遠征に博物学者として参加し、エジプトおよびイェメン(アラビア・フェリクス)の植物・動物に関する膨大な記録を残した[1]。また、1759年に発表したパンフレット『市民的自由についての考察』(スウェーデン語:Tankar om borgerliga friheten)により、世界で初めて出版の自由を成文法で保護したスウェーデンの1766年出版自由法の成立に大きな影響を与えた人物としても評価されている[2]。マラリアにより31歳で夭逝したが、その著作・標本は後世の中東自然史研究の礎となった。

名前の表記はフィンランド語・スウェーデン語の文字「å」の転写の違いにより、Forsskål、Forskål、Forsskaal、Forskal など多数の異体が存在する[3]。植物学上の著者略号は Forssk. が用いられる。

生い立ちと初期教育

フォルスコールは1732年1月11日、当時スウェーデン王国領であったヘルシンキ(現フィンランド)に生まれた。父のヨハネス・フォルスコールはルター派の聖職者であった。母マルガレータ・コルベックは1735年、ピーターがわずか3歳のときに死去している。1741年に父がスウェーデン本土のウップランド地方テーゲルスモラ教区の司祭職に就いたため、家族はスウェーデンへ移住した[4]

わずか10歳の1742年ウプサラ大学に入学し(当時の慣習による早期入学)、1750年から本格的に学業を開始した。ウプサラではカール・フォン・リンネのもとで植物学を学び、その卓越した才能と旺盛な議論好きな精神がリンネに高く評価された。1753年に「優秀」の評価で卒業した後、ゲッティンゲン大学に進学し、東洋語と哲学を学んだ[5]。ゲッティンゲンでは、当時ヨーロッパ屈指の先進的学術機関と称された同大学で、神職による検閲のない学問の自由に深く感銘を受けた。1756年に論文 Dubia de principiis philosophiae recentioris(「近代哲学の諸原理についての疑問」)で博士号を取得している[6]

出版の自由をめぐる闘い

1756年にウプサラに戻ったフォルスコールは、経済学の講師として研究を続けながら、市民的自由の問題に強い関心を持つようになった。1759年春、彼は論文 De libertate civili(「市民的自由について」)を大学に提出しようとしたが、内容が時代の権力にとって不都合として却下された。そこで検閲を経た穏健版のスウェーデン語パンフレット『市民的自由についての考察』(Tankar om borgerliga friheten)を500部印刷し、ウプサラの学生たちに配布した。しかし直後に政府が介入し、当時学長職にあったリンネも大学当局から押収・廃棄を命じられた。結局79部のみが回収されたに過ぎず、思想はかえって広く流布した[7]

このパンフレットは21段落から成り、出版の自由を市民社会の根幹として論じた。当局はフォルスコールを長期にわたり尋問したが、最終的に処罰は科されなかった。この事件はスウェーデンにおける自由の闘争の象徴的出来事となり、1766年の「出版および著作の自由に関する恩赦令」(世界初の出版の自由を保護した成文法)成立への道を開いた[8]2023年、スウェーデンの出版自由法はUNESCOの「世界の記憶」登録遺産に指定された[9]

デンマーク王立アラビア遠征

1759年、ゲッティンゲンの東洋学者ヨハン・ダフィット・ミカエリスがデンマーク国王フレデリク5世に科学探検隊の派遣を提言し、フォルスコールを博物学者として推薦した。リンネも強く後押しし、フォルスコールはデンマーク王立アラビア遠征隊(6名)の一員となった。隊には数学者・測量士・地図製作者のカルステン・ニーブールも名を連ねていた[10]

遠征隊は1761年1月4日、デンマークの軍艦でコペンハーゲンを出港した。まずエジプトのアレクサンドリアに到着し、約1年間を費やしてエジプトの植物・動物の調査を行った。フォルスコールは護衛の兵士を連れながら砂漠に入り、現地のベドウィンの案内で調査を続けた。アラビア語を習得していたフォルスコールは現地の習慣に溶け込み、アラビア衣装を身につけて活動した。エジプトでは576種の植物を採集し、その約半数が科学的に新記録の種であった。これは18世紀における最大規模のエジプト植物調査であった[11]

1762年末、遠征隊は南アラビア(アラビア・フェリクス、現在のイェメン)に到着した。フォルスコールはニーブールと共にイェメンの多様な地形(海岸平野、砂漠、高地)を踏査し、6か月という短期間で693種の植物を採集した。そのうち半数以上は科学的に新記録の種であった[12]。また、マラリアに倒れる直前の1763年6月には、コーヒーで名高いモカの町からリンネに手紙を送っている[13]

1763年7月11日、フォルスコールはイェメンのヤリム(Yarim、旧称Yerim)でマラリアにより死去した。享年31。遠征隊の6名のうち生還したのはニーブールただ一人であった[14]

学術的業績

植物学

フォルスコールがエジプトとイェメンで採集した植物標本は2,000点を超え、そのうち1,846点が現在もコペンハーゲンデンマーク自然史博物館の「Herbarium Forskalii(フォルスコール植物標本庫)」に保存されており、ほぼすべてがデジタル化されている[15]。遺稿はニーブールの尽力により1775年Flora Aegyptiaco-Arabica(エジプト・アラビア植物誌)として刊行された。この著作はフォルスコールが50の新属を提案したものであり、そのうち半数は今日でも有効とされる[16]。リンネはフォルスコールがカイロ付近で発見した植物に Forsskaolea tenacissima と命名した。種小名 tenacissima(「非常に粘り強い」の意)は植物の繊維質の強靭さを示すと同時に、師の目から見たフォルスコールの人物像への敬意の表現でもあると伝えられている[17]。また植物属 Forsskaolea L. は彼の名を冠している。

動物学・海洋生物学

フォルスコールは紅海における海洋生物の記録においても先駆的な役割を果たした[18]。遺稿は1775年Descriptiones Animalium(動物誌)として刊行された。この著作で彼は計151種の魚類を新記録として記載した[19]。ニーブールは出版にあたり、フォルスコールが記録したアラビア語の魚名をそのままラテン語種名として転記した。これは当初フォルスコールが意図した命名方法ではなかったが、現在では紅海沿岸で今日も使われているアラビア語魚名が科学的種名として残るという独自の学術遺産となっている[20]。彼の名にちなんでルドルフ・ケリカー(Kölliker)は管クラゲ目の Forskalia 属(Forskaliidae科)を、デッレ・キアーイェは黒いナマコ Holothuria forskali を命名している。

哲学

ゲッティンゲン時代の博士論文 Dubia de principiis philosophiae recentioris では、当時ルター派教会で主流であったヴォルフ哲学を批判し、デカルトの神の存在論的証明を否定した。bbは無神論者ではなかったが、信仰と理性の関係について独自の見解を展開し、ドイツの学界で注目を集めた[21]

植物地理学

フォルスコールは野外調査において、土壌の肥沃度、地理的条件と植生の関係、植物の分布パターンといった事柄を詳細に記録した。これは当時としては先進的な植物地理学的視点であり、近代的な生態学的思考の萌芽とみなされている[22]

主な著作

  1. Dubia de principiis philosophiae recentioris(近代哲学の諸原理についての疑問). Göttingen, 1756.
  2. Tankar om borgerliga friheten(市民的自由についての考察). Stockholm: Lars Salvius, 1759.(現代版)Peter Forsskål, Thoughts on Civil Liberty. Stockholm: Bokförlaget Atlantis, 2009. ISBN 978-91-7353-360-7. [David Goldberg, Gunilla Jonsson, Helena Jäderblom, Gunnar Persson, Thomas von Vegesack 編訳]
  3. Flora Aegyptiaco-Arabica sive descriptiones plantarum quas per Aegyptum Inferiorem et Arabiam felicem detexit, illustravit Petrus Forskål. Post mortem auctoris edidit Carsten Niebuhr. København: Nicolaus Möller, 1775.
  4. Descriptiones Animalium – Avium, amphiborum, insectorum, vermium quæ in itinere orientali observavit Petrus Forskål. Post mortem auctoris edidit Carsten Niebuhr. København: Nicolaus Möller, 1775.
  5. Icones rerum naturalium quas in itinere orientali depingi curavit Petrus Forskål. Post mortem auctoris edidit Carsten Niebuhr. København: Nicolaus Möller, 1776.

思想・考え方

フォルスコールの思想の根幹にあるのは、市民的自由と出版の自由への揺るぎない信念である。ゲッティンゲン大学で学んだ際、宗教的検閲のない学問の自由に深い感銘を受けた彼は、スウェーデンに帰国後もその理想を追い求めた。彼は「人間は自らの意志に従って生きる限りにおいて自由であり、自由ほど生命の次に大切なものはない」という立場から出発し、公共の善に貢献するためには思想と著作の自由が不可欠であると論じた[23]

彼の「市民的自由」の定義は、社会の各員が他者を傷つけることなく、良心に従い、自らの財産を使い、公共の利益に貢献できる状態を指していた。この考え方は、当時の啓蒙主義思想と共鳴しつつも、スウェーデンの政治文脈における具体的な権利要求として提示されており、単なる哲学的命題にとどまらない実践的意義を持っていた[24]

自然科学においては、フォルスコールはリンネ分類学の忠実な継承者でありながら、アラビア語の現地名を標本記録に活かすという実用的・人文学的なアプローチを実践した。エジプトやイェメンの土地の名前を科学の世界に持ち込んだことは、現地の知識体系を尊重する先進的な姿勢を示している。歴史家ヘンリク・シュックは「これほど多面的な科学的才能を持ち、独創性と精力を兼ね備えた学者は少ない。もし長命であったなら、偉大な業績を成し遂げたに違いない」と述べている[25]

発言

フォルスコールの思想の理解を助けるため、キーワードごとに分類した彼自身の説明等の発言を以下に引用する。

自由の本質
「人間は自らの意志に従って生きることができる限り、自由です。それゆえ、自由は生命の次に人間にとって最も大切なものです。いかなる理性ある存在も、暴力や、より大きな害悪への恐怖に強いられない限り、自由を手放したり縮小したりしようとはしないでしょう。」
(原文:"The more a man may live according to his own inclinations, the more he is free. Therefore, next to life itself, nothing could be more dear to man than freedom. No rational being relinquishes or curtails it unless forced to do so by violence or fear of some greater evil.")[26]
出版の自由と公共の善
「自由な社会においてもう一つ重要な権利は、公共の善に貢献できる自由です。そのためには社会の実状を広く知らしめることができなければならず、誰もがそれについて自由に意見を述べることができなければなりません。これが欠けている限り、自由はその名に値しません。」
(原文:"Finally, another important right in any free society is the liberty to contribute to the Public Good. But for this to happen, it must be possible to make the state of affairs in society known to one and all, and everyone must be free to express their thoughts about it. Where this is lacking, liberty is not worth its name.")[27]
スウェーデンにおける学問と自由への渇望
「もしスウェーデンでも、イギリスやドイツで享受されているような思考と著作の自由があったなら、寒冷な気候が精神の働きを損なわないことはいっそう明らかになるでしょうに。」
(原文:"If we only had the freedom to think and write in Sweden that they enjoy in England and Germany, it would be even more obvious that the cold climate does the mind no harm.")[28]

後世への影響

脚注

外部リンク

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