ペーローズは636年に誕生した[2]。この時すでにムスリムが正統カリフのもとでペルシア侵略を開始しており、サーサーン朝は同年のカーディシーヤの戦いで大敗、翌年には首都クテシフォンを失った。その後も続いたイスラーム教徒のペルシア征服のなかで、ペーローズら多くのサーサーン朝皇族はパミール高原に逃れ、そこから唐に入って支援を受けた。この頃の唐は高宗の時代である。
旧唐書によれば661年、ペーローズはアラブ人に対抗するための軍事支援を唐に求めた。これを受けて、唐政府は現在のアフガニスタンのザランジ付近に波斯(ペルシア)都督府を設置し、彼以外のサーサーン朝の難民が唐領内に住むことも認めた。670年から674年の間に、ペーローズは唐の首都である長安を訪れ、右武衛将軍に任じられた。
678年、吏部侍郎の裴行倹はペーローズを送還する任を受け、西突厥を征討し、碎葉鎮(スイアブ)まで征服した。ペーローズは吐火羅(トハリスタン、バクトリア)まで至ったが、ここで数千人のペルシア人と共に20年以上とどまらざるを得なくなった。
708年、ペーローズは再び長安に赴き、左威衛将軍に任じられた[3]。
なお同じく旧唐書にある裴行倹の列伝によれば、彼はペルシア情勢についての報告の中で、ペーローズは678年以前に死去している、と述べている。ここでは、裴行倹に随行したのはペーローズの息子ナルシエフであるとされている。
一方で、唐の高宗(683年死去)の葬儀に参列した外国人をかたどった石像「六十一蕃臣像」は、乾陵に現存の像は首が破壊されているが、石像のモデルの一人に「右驍衛大将軍兼波斯都督波斯王卑路斯」がいたとされている[4]。すなわち、少なくとも683年時点では、ペーローズは健在だったことになる。