ボチュク
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ボチュクの母はナイマン部出身のマイチェ(Mayiche、馬一実)で、父のトルイにとっては庶出の子供であった。『元史』にはボチュクは驍勇で騎射を得意としたと記されている[1]。
チンギス・カンが亡くなりオゴデイ・カアンが即位するとヨーロッパ方面への遠征が計画され、ボチュクはバトゥ率いる遠征軍に入ることとなった。『元朝秘史』では総指揮官バトゥと仲違いし、一時帰国したグユクに対してオゴデイ・カアンがスブタイとボチュクの庇護があったからこそ、ルーシ人との戦いに功績を挙げることができたのだとグユクの増長を窘める発言が記録されている[2]。この遠征の功績により、ボチュクはバアトル(抜都)の称号を賜ったという[3]。
1257年、モンケ・カアンの時代には蠡州3347戸を賜り、自身の食邑とした。モンケ・カアンが亡くなると弟のクビライとアリクブケの間にカアン位を巡って争いが起きたが、ボチュクの動向は明らかになっていない。しかし、クビライ統治下で活躍し列伝も立てられた楚王家の始祖ボチュクがクビライ側に立って参戦したことが記されないのは不自然であるため、アリクブケ派もしくは消極的なアリクブケ支持であったと推測されている[4]。