ボッロメーオ同盟
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スイスの都市や農村の諸邦は、1291年に結成されたスイス盟約者団のもとに結集して15世紀末までにハプスブルク家の支配を完全に脱し、周辺諸国からの独立を確保した[1]。近世にかけて、盟約者団の内部では都市邦と農村邦、主権を持つ邦とその他の小都市・農村や修道院など従属邦などといった様々な対立構造が深刻化しつつも、諸邦が共同支配地を管理調整する必要から連帯を維持していた[2]。しかし1520年代、フルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革を推進してチューリッヒの主導権を握ると、スイスはツヴィングリ改革を支持する改革派諸邦(チューリッヒ州、ベルン州、バーゼル州、シャフハウゼン州など)とカトリック諸邦(ウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州、ルツェルン州、ツーク州など)に分裂し決裂した[3]。農村でも都市部に遅れて1530年代に改革派が浸透し始め、一時は48教区の内32教区が改革派支持に回ったものの、16世紀後半になるとカトリックが盛り返していった[4]。同じ邦の中でも、邦全体で定められた宗派と異なる少数派が残ったり、従属邦と主権邦が立場を分けたりするケースも多々あった[5]。
1535年の第二次カッペル戦争で、改革派はツヴィングリが戦死するなどの敗北を喫した。戦後に結ばれた和約では諸邦が宗派決定権を認められたものの、共同支配地の統治権はカトリック諸邦に有利に定められた[3]。カトリックにとっても、この和約はスイスの宗派分裂を固定化しカトリックの完全な失地回復が困難になったという点で妥協を強いられたものであり、カトリック勢力はカトリック陣営内での基盤強化に注力するようになった[6]。二宗派に分裂したスイス諸邦は、それぞれ別々に陣営を形成し、周囲のヨーロッパ諸国との連携を模索し始めた[7]。改革派はツヴィングリ派とジュネーヴを拠点としたジャン・カルヴァンを中心とするカルヴァン派に分かれていたが、ツヴィングリ派のハインリヒ・ブリンガーがカルヴァンと協力して予定説を受け入れるなどして教義面でスイスの改革派を統合した[7]。政治的にも1584年にベルン、ジュネーヴ、チューリッヒの三州が同盟を結んで改革派諸邦の中核となり、ベルン州とチューリッヒ州はストラスブールやバーデン辺境伯領、カトリックではあるがスペイン支配下のミラノ公国と対立するヴェネツィア共和国などと同盟を結んだ[7]。
対するカトリック諸邦はサヴォイア公国との連携を強めるとともに、教皇巡察使として派遣されたミラノ大司教カルロ・ボッロメーオのもとでスイスにおける対抗宗教改革が進められた[8]。カルロ・ボッロメーオは、叔父の教皇ピウス4世に重用され、トリエント公会議の終盤を指導推進した対抗宗教改革の旗手の一人であった。彼は1570年にカトリック諸邦を歴訪した後、スイスにおいてカトリック諸邦の代表とされたルツェルンに常駐教皇大使を配置し、スイス各地にイエズス会を招致した[9]。またトリエント公会議で定められた聖職者養成教令に基づいてミラノにヘルヴェティア学院を創設し、スイス人神学生を招いて高度な神学教育の場を提供した[6]。