ボビー・サンズ
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| ボビー・サンズ Bobby Sands (英語)、Roibeárd Ó Seachnasaigh (アイルランド語) | |
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ボビー・サンズの壁画(北アイルランド・ベルファスト) | |
| 生年月日 | 1954年3月9日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1981年5月5日(27歳没) |
| 死没地 | 北アイルランド、ダウン県メイズ刑務所 |
| 所属政党 | 反Hブロック |
| 配偶者 | ジェラルディン・ノード |
| 子女 | 1人 |
| 親族 | バーナデット・サンズ・マクヴィット (妹) |
| 選挙区 | ファーマナ・アンド・サウス・ティロン |
| 当選回数 | 1 |
| 在任期間 | 1981年4月9日 - 1981年5月5日 |
| ボビー・サンズ | |
|---|---|
| 所属組織 | IRA暫定派 |
| 軍歴 | 1972 - 1981 |
| 戦闘 | 北アイルランド紛争 |
ボビー・サンズ(英語: Bobby Sands)またはロバート・ジェラード・サンズ (英語: Robert Gerard Sands, アイルランド語Roibeárd Gearóid Ó Seachnasaigh;[1] 1954年5月9日 – 1981年5月5日) はIRA暫定派 (IRA) のメンバーであり、イギリス庶民院議員。北アイルランドのメイズ刑務所に服役中にハンガー・ストライキで死亡した。サンズは1976年の家具店爆破事件の計画に参画。事件直後に警察と銃撃戦となり、サンズは逃走しようとしたが逮捕される。銃器所持の罪で禁固14年間の判決を受けた。
サンズは、特別カテゴリ・ステータス(北アイルランド紛争に関して有罪判決を受けた受刑者に、事実上の「戦争捕虜」のような待遇を与えること)の廃止に反対して、1981年にアイルランド統一主義の受刑者が実行したハンガー・ストライキのリーダーである。サンズはハンガー・ストライキ中に反Hブロック党の候補としてイギリス庶民院の選挙に立候補して当選した。[2][3] サンズおよび彼に続く9人のハンガー・ストライカーの死により、IRAへの志願者は急増し、活動も活発化した。国外のメディアでも報じられたことから、このハンガー・ストライキおよびアイルランド統一運動全般への関心が高まり、賞賛と批判の両方を呼んだ。[4]
ボビー・サンズは1954年にベルファスト郊外のダンマリーで生まれた[5]。両親のジョンとロザリーンは結婚後に、同じくベルファスト近郊にあるニュータウンアビーのアボッツ・クロスという新興住宅地に居を移した[6]。サンズは4人兄弟の長子である。妹のマーセラとバーナデットはそれぞれ1955年と1958年生まれ[7]、弟のジョンは1962年生まれである[8]。
1961年、隣人たちから嫌がらせと脅迫を受けたサンズ家は、アボッツ・クロスを出て友人宅に6か月間身を寄せた。その後、近くのラスクールという地区に公的な援助を得て家を借りることができた[9]。ラスクールの住民の30%はカトリック系であり、カトリック系の学校と、名前はカトリックだがプロテスタント系の子供も受け入れるサッカー・クラブがあった。これは北アイルランドでは珍しいことだった。サッカー・クラブの名前はステラ・マリスといい、これはサンズの通う学校と同じ名前であり、クラブの練習もこの学校で行われていた。サンズはこのクラブに参加して左サイドバックとしてプレイした[10][11]。近くのグリーンキャッスルにもスター・オブ・ザ・シーという名の少年向けサッカー・クラブがあり、ステラ・マリス・クラブが閉鎖された後、多くの子供たちはそちらに移った。
1966年までに、ラスクールを含むベルファスト大都市圏での宗派間の暴力は大きく悪化していた。少数派だったカトリック系の住民は包囲されているように感じるようになった。サンズには常にプロテスタントの友人がいたのだが、彼らは突然サンズと話をしなくなり、サンズもカトリックの友人とのみ付き合うようになった[12]。
1969年、15歳になったサンズはステラ・マリスを卒業し、ニュータウンアビー・テクニカル・カレッジに入った。1970年には、バス製造会社のアレクサンダーズ・コーチ・ワークス社(現在のアレクサンダー・デニス社)で見習いの組立工として働き始めた。サンズはここでは1年弱しか働かなかった。プロテスタントの同僚からは常に嫌がらせを受けていた。当時の同僚によると、サンズはこうした嫌がらせを一切無視し、意義のあるスキルを身に着けることに専心した[13]。しかし、1971年1月、勤務が終わって帰ろうとするサンズを、アルスター・ロイヤリストの暴力的青年組織の腕章を巻いた数人の同僚が取り囲んだ。サンズは銃を突き付けられ、アレクサンザースには「フェニアンのくず」の居場所はない、命が惜しければ二度と戻ってくるなと脅された。「フェニアン」とはプロテスタント系がカトリック系に対して使う蔑称である。軍事行動のみが解決の道だと悟るきっかけとなったのがこの出来事である、とサンズは後に語っている[14]。1971年、グレン・イン(グレンゴームリー地区にあるパブ)というパブでバーテンダーとして働いていたサンズは、IRAとつながりがあるとされる男に近づき、IRAに参加する意思を伝えた。男は、ラスクールの状況は悪く、そこのカトリック系住民は孤立しているから、もう一度よく考えるようにとサンズに告げた。しばらく経って、パブで出会った男が自宅近くでサッカーをしていたサンズを見つけて声をかけた。男は入隊の儀式として、ラスクールからグレンゴームリーに銃を運ぶようにサンズに頼んだ。その仕事をするはずだった地元のIRAメンバーが姿を現さなかったというのだ。サンズはすぐに試合を抜け、服を着替えて銃を受け取った[15]。ボビー・サンズの伝記を書いたデニス・オハーンによれば、サンズがIRAに本格的に参加したのはこれが最初だった。
サンズはすぐに数人の友人を誘い、6~7人からなる補助組織を作り、そのリーダーとなった。彼らは孤立していたので、近くのエリアの他のIRAメンバーと協力して活動を行った。[16]
1972年12月、サンズの両親の家がロイヤリスト(英国王党派)の暴漢たちに襲撃されて損害を受けた。このため両親は再び引っ越しを余儀なくされ、西ベルファストのトゥインブルックというカトリック地区に落ち着いた。状況に大きく幻滅していたサンズもここで両親と同居することになった。1973年までに、ほとんどのカトリック系住民は暴力や脅迫によりラスクール地区から追い出された[17]。
IRA暫定派での活動
1972年10月、サンズは滞在していた家で見つかった4丁の拳銃を所持していた疑いで逮捕・起訴された。1973年4月に禁固5年間の有罪判決を受けて服役し、1976年4月に釈放された。[18][19]
サンズは西ベルファストの実家に戻り、IRA暫定派としての活動を再開した。サンズは、後にハンガー・ストライキに加わることになるジョー・マクドネルと共に、1976年10月4日にダンマリーにあるバルモラル家具会社の爆破することを計画した[20]。同社のショールームは破壊されたが、現場から逃走しようとするIRAメンバーと警察の間で銃撃戦が起きた。負傷した2人を残し、サンズを含む4人は車で逃げようとしたが逮捕された。犯行に使用された拳銃の1丁が車内で発見された。彼らは爆弾に関する罪では起訴されなかった[21][22]。
有罪判決を受けた直後にサンズは喧嘩をしてクラムリン・ロード刑務所の懲罰ブロックに送られた。監房にはベッド、マットレス、室内用便器、水差しが備え付けられていた。本やラジオ、その他の個人的な持ち物を持ち込むことはできなかったが、聖書とカトリックのパンフレットは与えられた。サンズは囚人服を着ることを拒み、監房の中で裸で22日間を過ごした。午前7時半から午後8時半までの間は寝具を使うことは許されなかった[23]。
メイズ刑務所での日々
1980年の後半、サンズはメイズ刑務所に収容されたIRA暫定派の囚人の指揮官に選ばれた。前任者のブレンダン・ヒューズはその年に行われた最初のハンガー・ストライキの参加者だった。アイルランド統一運動の囚人たちは、以前に与えられていた特別カテゴリ・ステータスの回復を目指してさまざまな抵抗運動を行った。特別カテゴリ・ステータスが認められれば、アイルランド統一運動の囚人は、一般の囚人に適用される規則の一部が免除されるのだった。この抵抗運動は1976年に「ブランケット・プロテスト」から始まった。ブランケット・プロテストでは、囚人たちは囚人服の着用を拒み、ブランケット(毛布)を身にまとった。1978年、室内用便器を空にするために監房を離れた囚人が何度も襲撃されたため、抵抗運動は「ダーティー・プロテスト」へと発展した。これは、囚人が体を洗うことを拒み、人糞を壁に塗りたくるという形態の抵抗だった[24]。サンズはメイズ刑務所の残虐行為について次のように書いている。「看守たちは私を裸のまま監房から連れ出し、外から車内が見えないようにしたバンで懲罰ブロックに運んだ。到着して車から出たとたん、看守たちが四方から私につかみかかり、殴る蹴るの暴行で私を地面にはいつくばらせた。(中略)看守たちは私の髪の毛をつかみ、砂利の上を懲罰ブロックの門のところまで私を引きずった。私は勢いよく前につんのめり、門を覆う波形の鉄板に頭を打ち付けた」[25]
発表された作品
サンズは獄中で書いた手紙や記事を「マーセラ」(サンズの妹の名前)という偽名のもと、アイルランド統一主義陣営の新聞である「アン・フォブラハト」に発表した。サンズのその他の著作には、『Skylark Sing Your Lonely Song』 (1989)[26]や『One Day in My Life』(1983)がある[27]。サンズが作詞した「Back Home in Derry」と「McIlhatton」という曲は、アイルランドのフォーク歌手であるクリスティ・ムーアによって録音された。 また「Sad Song for Susan」という曲も後に録音された。「Back Home in Derry」のメロディーは、カナダのシンガー・ソング・ライターであるゴードン・ライトフットの「The Wreck of the Edmund Fitzgerald」からの借用である[28]。「The Wreck of the Edmund Fitzgerald」は、19世紀にヴァン・ディーメンズ・ランド(現在のオーストラリア、タスマニア)に島流しにされたアイルランド人のことを歌った歌である。
ハンガー・ストライキ
1981年のハンガー・ストライキは、1981年3月1日にサンズが食事を拒否したときから始まった。サンズは、囚人が時期をずらして段階的にハンガー・ストライキに入ることを決めた。これは、囚人たちが徐々に弱っていく様を継続して数か月にわたって見せることで、報道量を最大化するためだった。ハンガー・ストライカーの要求は主に次の5つである。
- 囚人服を着用しない権利
- 刑務所の作業をしない権利
- 他の囚人と教育または娯楽の目的で自由に交わる権利
- 週ごとに1回の訪問、1通の手紙、1個の小包を許可すること
- 抗議のために失った減刑措置を完全に回復すること[29]
このハンガー・ストライキの重要な点は、囚人が一般の犯罪者ではなく政治犯として扱われることを目的としたことだった。サンズの死の少し前、ワシントン・ポストは、国際的な報道により認知を高めることがハンガー・ストライキの目的であると報じた[30]。
庶民院議員選挙への立候補と当選
ハンガー・ストライキの開始後すぐ、ファーマナ・アンド・サウス・ティロン選挙区選出の庶民院議員であるフランク・マガイアが心臓発作のために急死したため、4月に補欠選挙が行われることになった[31]。 サンズの支援者にとって、カトリック系が約5000票差で多数派を占める選挙区に欠員が出たことは、一般の人々の関心を引き寄せるための貴重な機会であった[32]。票の分散を避けるため、他のカトリック系政党、特に社会民主労働党が候補者の擁立を見送り、サンズは「反Hブロック/アーマー政治囚」の候補として立候補した。激しく意見が対立した選挙戦を経て、1981年4月9日に行われた投票でサンズは僅差で当選した。選挙結果は、サンズが30,493票、対立候補のハリー・ウェスト(アルスター統一党)が29,046票だった。サンズはその時点での最年少議員となった[33]。サンズはそれから1か月も経たないうちに獄中で死亡した。庶民院の議会に出席することは一度もなかった。
サンズが当選した後、英国政府は1981年人民代表法を制定した。この法律により、イギリスまたはアイルランドで1年を超える刑期で服役中の囚人は、イギリスでの選挙に立候補することはできなくなった[34][35]。サンズの議員選出への対応として制定されたこの法律により、他のハンガー・ストライカーが庶民院議員となることは不可能になった[36]。
死
サンズは66日間のハンガー・ストライキの後、1981年5月5日にメイズ刑務所の病院で死亡した。27歳だった[37]。病理報告書には最初はハンガー・ストライカーの死因として「自ら課した飢餓」と書かれていたが、死亡したハンガー・ストライカーの家族からの抗議により単に「飢餓」に変更された。検視官は「自ら課した飢餓」との判断を記録した[38]。サンズは、20世紀にハンガー・ストライキで死亡した22人のアイルランド統一運動家の1人である[39]。
サンズはアイルランド統一運動の殉教者となった[40]。彼の死が発表されると、北アイルランド各地のカトリック系住民の多い地区で数日間にわたって暴動が起きた。ツインブルック地区にある聖ルーク・カトリック教会から墓地へと向かうサンズの棺を乗せた車を見送るために10万人以上が沿道を埋めた。サンズは76人の同志と共に、アイルランド統一運動の闘士のための区画に眠っている。彼らの墓地は、ベルファストの国民墓地協会によって維持・管理されている。[41]
反応
イギリス
イギリス首相のマーガレット・サッチャーは、1981年5月5日のイギリス庶民院での質問に答えて、「サンズは有罪判決を受けた犯罪者である。彼は自分の命を自分で奪うことを選択した。それは、彼の所属する組織がその犠牲者に許すことのなかった選択である」と述べた。[42]
イングランドとウェールズのカトリック教会の長であるバジル・ヒューム枢機卿は、ハンガー・ストライキは暴力の形態のひとつであるとしてサンズを非難した。ただし、これは個人的な見解であると言い添えている。カトリック教会は公式見解として、より高次の善のために自身を犠牲にすることは良心に基づく行動であると見なし、ハンガー・ストライカーに対して聖職者の職務を提供すべきであるとしている。[43]
サッカーのオールドファーム(スコットランドのグラスゴーに本拠を置くセルティックFCとレンジャーズFCの間のダービー・マッチ)では、一部のレンジャーズ・ファンがセルティック・ファンをばかにする目的で、サンズをあざける歌を歌うことで知られている。セルティック・ファンには伝統的にアイルランド統一の支持者が多い[44][出典無効]。セルティック・ファンは、IRAを支援するさまざまな抵抗歌を歌うが、その中に1981年のハンガー・ストライキで死んだ10人を追悼する「The Roll of Honour」(直訳は「功労者名簿」)がある。この歌では、サンズは「彼らは彼らのリーダー、勇敢なサンズのそばに立つ」と歌われている。レンジャーズ・ファンによるあざけりは、反アイルランド感情の発露として、イギリスの民族主義とのつながりが強いイギリスのクラブがセルティックの本拠地を訪れた際にもそのファンによって使われるようになった[45]。1981年のブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの代表チームによるサッカーの大会)は、サンズの死後、安全面の懸念からイングランドとウェールズの代表が北アイルランドで試合することを拒否したため中止となった。[要出典]
ヨーロッパ
ヨーロッパでは、サンズの死後、広範な抗議活動が巻き起こった。ミラノでは5,000人の学生がイギリスの国旗を燃やし、「アルスターに自由を」と叫びながら行進した。ベルギーのゲントにある英国領事館は襲撃を受けた[46]。パリでは、何千人もがサンズの巨大な肖像画を先頭に「IRAが勝利する」と声をあげながら行進した。[46]
ポルトガルの国会では、野党がサンズのために1分間の黙とうを捧げた[46]。オスロでは、デモ参加者の1人が英国女王のエリザベス2世にトマトを投げつけたが、当たりはしなかった[47]。ソビエト連邦のプラウダ紙は、サンズの死について、アイルランドにおける「抑圧、差別、テロ、暴力の陰鬱な物語に新しいページが加わった」と表現した[46]。ナント、サン=テティエンヌ、ル・マン、[48] ヴィエルゾン、サン=ドニなどフランスのいくつもの都市には、サンズの名を冠した通りがある[49]。 保守的傾向の強い西ドイツのディ・ヴェルト紙は、「イギリス政府は正しく、サンズは自分の命と引き換えに国を脅していただけだ」と否定的な見方をしている。[46]
アメリカ大陸
米国では、さまざまな政治組織、宗教団体、労働組合、募金団体がサンズに敬意を表した。ニューヨークの国際港湾協会は、イギリスの船を24時間ボイコットすると発表した[50]。ニューヨークのセント・パトリック大聖堂では、テレンス・クック枢機卿による北アイルランドのための和解のミサに参加するために千人以上が集まった。ニューヨーク市内のアイリッシュ・パブは追悼のために2時間、店を閉めた。[51]
ニュージャージー州議会の下院であるニュージャージー州議会代議院では、34対29でサンズの「勇気と献身」を称える決議を採択した。[51]
アメリカのメディアでは、サンズの死についてさまざまな意見が示された。ボストン・グローブ紙は、サンズの死の数日前に、「ボビー・サンズの緩慢な自殺の試みは、彼の国と大義を死と絶望のさらなる負の連鎖へと追いやった。ボビー・サンズの物語に英雄はいない」と書いた[52]。シカゴ・トリビューン紙は、「マハトマ・ガンディーは、インドの人々が同胞を殺すことをやめさせるためにハンガー・ストライキを使った。ボビー・サンズの意図的に緩慢な自殺は、市民戦争を激化させようとしたものだ。前者は畏敬され、影響を受けるに値する。後者は、理性的な世界においては、カリスマ的な殉教者ではなく、狂信的な自殺と見なされるだろう。その残念な死は、他者を殺すための十分な理由とはならない」と書いた。[53]
ニューヨーク・タイムズ紙はその社説において、「イギリスのサッチャー首相は、IRAのハンガー・ストライカーであるボビー・サンズに政治犯の地位を与えることを拒んだという点で正しい」と書いた。その上で、「冷酷で鈍感」という印象を与えたことで、イギリス政府はサンズに「殉教者の王冠」を与えたと論じている[54]。サンフランシスコ・クロニクル紙は、政治的信念により活動家が刑法の適用を免除されるべきではない」と論じた。
テロリズムは政治的信念の表現の範囲をはるかに超えている。西欧諸国やアメリカが学んできたように、それに対処するにあたって妥協は許されない。バー、ホテル、レストランの爆破、銀行強盗、誘拐、著名人の殺人は犯罪行為であり、刑法によって対処されなければならない」、1981年5月6日付サンフランシスコ・クロニクル紙
アメリカの一部の批評家やジャーナリストは、アメリカのメディアの報道が「メロドラマ」になっていると評している[55]。ピッツバーグ・プレス紙のエドワード・ラングリーは、数多くの親IRAのアイルランド系アメリカ人が「まるでキャンディを飲み込むかのようにIRAのプロパガンダを鵜呑み」にしていると批判し、IRAテロリストのプロパガンダの勝利であると結論付けている。[56]
米国カトリック司教会議の長のジョン・R・ローチ大司教は、サンズの死を「意味のない犠牲」と呼んだ[57]。フロリダ州レイクランドの地方紙であるレジャー紙は1981年5月5日付の紙面で、サンズは「プロテスタント系住民が多数派を占め、イギリスが支配する北アイルランドと、南側のカトリック系が大多数を占める独立したアイルランド共和国の再統合を求めるアイルランド人リパブリカンやナショナリストの間で英雄となった」と報じた[43]。同紙は、サンズの「私が死んでも神は理解するだろう。いつかどこかでまた会おうと皆に伝えてくれ」という言葉を引用した。[43]
コネチカット州のハートフォードでは、1997年にボビー・サンズをはじめとするハンガー・ストライカーたちに捧げる記念碑を設置した。これは、アメリカでは他に類をみない種類の記念碑である。アイリッシュ・ノーザン・エイド委員会(NORAID)と地元のアイルランド系アメリカ人によって設置されたこの記念碑は、グッドウィン公園の近くにあるメイプル通りの一方の端の安全地帯にあり、ボビー・サンズ・サークルと呼ばれている。[58]
キューバのハバナでは、2001年にサンズと他のハンガー・ストライカーの記念碑が公開された。[59]
ロードアイランド州のプロビデンスでは、2023年3月にサンズと他のハンガー・ストライカーの記念碑が公開された。[60]
アジア
- イランのテヘランでは、アボルハサン・バニーサドル大統領がサンズの家族に追悼のメッセージを送った。[61]
イラン政府はテヘランのイギリス大使館がある通りの名前をウィンストン・チャーチル大通りからボビー・サンズ通りに変えた。イギリス大使館は、ボビー・サンズ通りの名前をレターヘッドに記載するのを避けるため、別の通りに面した入口を正面玄関とした[62]。エラヒア地区のある通りの名も、サンズにちなんだものに変更された[63]。公式の青と白の街路表示板が、英国大使館の敷地の後ろ側にある壁に取り付けられた。そこにはペルシャ語で「ボビー・サンズ通り」という名前と共に「闘志あふれるアイルランドのゲリラ」という説明が添えられている[61]。国営イラン通信はボビー・サンズの死を「英雄的」と形容した[61]。イギリスはボビー・サンズ通りの名前を変更するようにイラン当局に圧力をかけたが拒否されたと伝えられている[64][65]。テヘランのあるハンバーガー店は、サンズにちなむ名前を付けた。[66][67]
- イスラエルのナファ刑務所で服役中のパレスチナ人の囚人たちは、手紙を送った。手紙は密かに刑務所外に持ち出され、1981年7月にベルファストに届けられた。その手紙には以下のように書かれていた。「ボビー・サンズと殉死した彼の同志の家族の皆さんへ。パレスチナ人民の革命家である私たちは、イギリスの支配層のエリートによってアイルランドの人々に押し付けられた抑圧的なテロリスト支配に立ち向かう皆さんに敬意を表し、連帯を表明します。あらゆる人にとって最も価値のある所有物である命を犠牲にしたボビー・サンズと彼の同志たちの英雄的な闘いを称えます」[68]
- ヒンドゥスタン・タイムズ紙は、「マーガレット・サッチャーは同僚の国会議員が餓死することを許した。こんなことは文明的な国ではこれまで起きたことがない」と書いた。[46]
- インドの国会のラージヤ・サバー(上院)の野党は、サンズのために起立して1分間黙とうした。与党のインド国民会議は加わらなかった[46]。イギリス政府に反対し、サンズや他のハンガー・ストライカーを追悼する抗議デモが組織された。[69]
- 香港の英文虎報は、「何代にもわたる英国政府が欧州最後の宗教戦争を終わらせられないのは悲しいことである」と書いた。[46]
政治的な影響
サンズの後を追い、IRAとアイルランド民族解放軍(INLA)のメンバー9人がハンガー・ストライキで死亡した。サンズの葬儀が行われた当日、ユニオニスト(英国と北アイルランドは不可分であると主張する陣営)の指導者であるイアン・ペイズリーは、ベルファスト市庁舎の外でIRAの犠牲者のための追悼集会を行った[50]。同年に行われたアイルランドの総選挙において、2人の反Hブロック候補が当選したが登院は拒否している。
サンズの死によりIRAの活動は活発化し、北アイルランド紛争は急速に激化した。IRAのメンバーは増加し、資金集めの能力も高まった。両陣営とも態度を硬化させはじめ、政治的に過激化していった[70]。サンズの庶民院の議席は、彼の選挙事務局長を務めたオーウェン・キャロンが引き継いだ。キャロンは「反Hブロック代理政治囚」として立候補し、サンズの選挙よりも2位の候補との票差を広げて当選した[71]。サンズの死後すぐに1981年人民代表法が制定されたため、他のハンガー・ストライカーが補欠選挙に立候補することは不可能になった。[要出典]