ボローニャで最も初期の美術学校(画塾)は「アッカデミア・デイ・デ・デ・ジデロッシ(Accademia dei Desiderosi、憧れのアカデミー)」で、後に「アッカデミア・デッリ・インカンミナティ(Accademia degli Incamminati、道を進む者たちのアカデミー)」という名前の学校が知られている。1582年頃にルドヴィコ・カラッチ、アゴスティーノ・カラッチ、アンニーバレ・カラッチによって設立され、「アッカデミア・デイ・カラッチ(Accademia dei Carracci)」とも呼ばれ、1600年ころまで存続した[1][2][3]
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1706年に画家、版画家のジャンピエトロ・ザノッティ(Giampietro Zanotti: 1674-1765))らが教皇クレメンス11世の許可を得て新しいアカデミーを設立し、アカデミーは1710年1月2日に博物学者、ルイージ・フェルディナンド・マルシーリの邸で開校した。1711年10月に「アッカデミア・クレメンティーナ」の名称となり、1711年にマルシーリはが教皇の支援を受けて設立し、1714年に「ボローニャ協会、科学アカデミー(Accademia delle Scienze dell’Istituto di Bologna)」と改称されたボローニャの科学アカデミーの一部となった。
アカデミア・クレメンティーナでは、カルロ・チニャーニ(1628-1719)やドナート・クレティ(Donato Creti: 1671-1749)らが教師を務めた。アカデミーの会員となったり学んだ美術家には、フェルディナンド・ガッリ・ダ・ビビエーナやヴィットリオ・ビガリ(Vittorio Bigari)やガエターノ・ガンドルフィ(Gaetano Gandolfi)、エルコレ・レッリ(Ercole Lelli)、フランチェスコ・ロザスピナ(Francesco Rosaspina)、ラファエレ・スア(Raffaele Suà)、アンジェロ・ヴェントゥローリ(Angelo Venturoli)らがいた。アカデミア・クレメンティーナはナポレオンのイタリア侵攻後の179:6年に閉鎖された。
1802年にフランス衛星国のイタリア共和国が成立すると「国立ボローニャ美術アカデミー(Accademia Nazionale di Belle Arti di Bologna)」がイエズス会教会と、サン・イグナツィオ修道院であった建物にされ、1805年にナポレオンが国王となったイタリア王国 (1805年-1814年)が成立すると「王立ボローニャ美術アカデミー(Reale Accademia di Belle Arti)」に改名され、ナポレオン失脚後、1815年に「ボローニャが教皇庁立ボローニャ美術アカデミー(Pontificia Accademia di Belle Arti)」と改名され[3] 、イタリア統一後は「王立ボローニャ美術アカデミー(Regia Accademia di Belle Arti di Bologna)」と呼ばれた。
1882年にアカデミーの美術品コレクションであった絵画館は「ボローニャ国立美術館(Pinacoteca Nazionale di Bologna)」として独立したが、同じ建物で運営されている。
1923年にムッソリーニ内閣の文部大臣ジョヴァンニ・ジェンティーレによる教育改革でアカデミーは中等教育を終了した学生を受け入れる高等教育機関となり、建築のコースはボローニャ大学に移管された[3]。
1999年12月の制度改正によりイタリアの他の国立美術アカデミーとともに、ボローニャ美術アカデミーは自律的な学位授与機関となった[4]。