ボーン・ラッセル
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ボーン・ラッセル(英語: Bourn Russell。1794年12月1日 - 1880年7月4日)は、イギリス生まれで、オーストラリアのニューサウスウェールズ植民地に移住した船長、政治家、実業家である。1831年(天保2年)、捕鯨船レディ・ロウエナ号の船長として日本近海での捕鯨航海中に、蝦夷地の浜中湾ウラヤコタン(現在の浜中町羨古丹)に上陸し松前藩と銃撃戦を行ったほか、八丈島や青ヶ島に来航した。その後、オーストラリアで実業家として成功する。1856年にニューサウスウェールズ立法議会(下院)議員、1858年から1880年までニューサウスウェールズ立法評議会(上院)議員を務めた。
商船の船長であった父ボーン・ラッセル・シニア(Bourn Russell senior)と母ハンナ・チャンドラー(Hannah Chandler)の間に生まれる。父親はラッセルが6歳のとき自分の船で射殺された[1]。ラッセルはライの無料グラマースクール、ロンドン近郊エドモントンの学校などで教育を受けた[2]。15歳で石炭船の見習いになり、その後イベリア半島や地中海向けの貿易船で働き二等航海士になる。ナポレオン戦争ではイギリスのために働き、船長となった[1]。21歳で家督を継ぐと屋敷を含めた資産を売却して、1815年建造の「レディ・ロウエナ号(Lady Rowena。323トン[3])」の共同船主となり[1]、1824年まで中国や南太平洋で貿易を行った[4]。
オーストラリアでの経歴
レディ・ロウエナ号船長
ラッセルを船長としたレディ・ロウエナ号は100人の女性流刑者を乗せてアイルランドからオーストラリアへ航海し、1826年5月、シドニーに到着[5]。レディ・ロウエナ号はイギリスに引き返すと再びオーストラリアへ向かい、この航海では1828年11月、ホバートに到着した[6]。1830年に捕鯨業を始めることとしイギリスで船員を集め、1830年8月にシドニーに到着。そしてレディ・ロウエナ号を捕鯨船へ改造した[7][8]。長男で11歳のボーン・ジュニア(Bourn junior)、婚外子で15歳のウィリアム・ワトソン(William Watson。家族節参照)も見習いとして連れてきており、残る妻子を捕鯨航海中にイギリスから呼ぶこととしていた[9]。1830年から1835年の間に2回、遠洋への捕鯨航海を行い[10]、これらの航海中にソロモン諸島を調査し、同諸島の初期の地図を発行している[11]。
日本への航海
1830年11月2日、レディ・ロウエナ号はニューサウスウェールズ植民地のポート・ジャクソン湾を出発[12]。捕鯨漁場である樺太のアニワ湾を目指し[13]、捕鯨と探検を行いながら珊瑚海を抜け太平洋を北上した。途中、南鳥島に相当する無人島に上陸し、新島発見と思ったラッセルは同島を「ウィリアム4世島」と命名した[14]。
松前藩との銃撃戦

暴風雨による浸水などを修理するため、1831年3月31日(天保2年2月18日)、レディ・ロウエナ号は浜中湾に停泊。ラッセルは浜中湾を「ロウエナ湾(Rowena Bay)」と名付け、武装して上陸した[15]。ウラヤコタンにいたアイヌとは物々交換や贈り物などの交流を持ったが、番屋の日本人は無視し、ラッセルを憤慨させる。そして翌日、ラッセルが再度上陸した際には集落はもぬけの殻となっていた[16]。
4月2日(旧暦2月20日)に異国船来航の報がアッケシ場所に届く。松前藩勤番重役の谷梯小左衛門は、異国船打ち払いのため、場所の和人とアイヌを動員してウラヤコタンへ向かった[17]。4月5日(旧暦2月24日)、ボートで海岸線調査を行っていたラッセルらは松前藩勢を見ると銃撃を始め、交戦状態となった。ラッセルらは弾薬が尽きると、レディ・ロウエナ号へ引き揚げた[18]。
4月7日(旧暦2月26日)ラッセルは松前藩の陣所を奪取しようと、再度武装して上陸。集中射撃を受けた松前藩兵はあっという間に潰走し、谷梯はアッケシの警備を優先するとの理由でウラヤコタンには戻らなかった[19]。この戦闘で足を負傷した谷梯の従者の利三吉が捕まりレディ・ロウエナ号に連れ去れ、船医の治療を受ける。翌日にはアイヌのイコシヤバも捕虜となった[20]。イコシヤバは一晩で解放されたが利三吉は出航前日まで抑留され、釈放時にラッセルから日本の「エンペラー」宛の、自分たちの行為を正当化し日本に抗議と脅迫をする書簡を託された[21][注 1]。
修理を済ませたレディ・ロウエナ号は、4月17日(旧暦3月4日)に浜中湾を出航した[23]。
レディ・ロウエナ号の捕虜となった利三吉とイコシヤバは後に江戸に召喚され、勘定奉行村垣定行の尋問を受けた[24]。日本側はレディ・ロウエナ号の国籍が分からず、この事件は『通航一覧続輯』では魯西亞國部に巻之八十四「渡來蝦夷地ウラヤコタン」として収録されている[25]。また、幕府は松前藩の復領(1821年)後初となる蝦夷地調査を行い、勘定奉行で蝦夷地警備強化のため箱館と東蝦夷地の再幕領化が議論された。しかし松前藩が老中水野忠成に働きかけていた1万石格への復帰が実現する(天保2年10月29日(1831年12月2日))と、再幕領化は立ち消えになった[26]。
一方オーストラリアでこの銃撃戦は、北太平洋海域の捕鯨船への警告として新聞で報じられた[27]。
なお、浜中町の羨古丹(ウラヤコタン)駐車公園は、「ウラヤコタン異国船上陸の地」として町の史跡になっている[28]。
八丈島・青ヶ島
その後レディ・ロウエナ号は千島列島に向かい、樺太近海の捕鯨漁場に向かうため太平洋からオホーツク海へ抜ける水路を探した。しかし流氷に遭遇したため断念し、捕鯨を行いながら日本沿岸を南下した[29]。
新鮮な食料を得るため、5月7日(旧暦3月24日)に八丈島[注 2]に上陸。ラッセルらは武装していたが戦闘は起こらず、島民と交流し、水と大根を補給した[31]。また、青ヶ島[注 3]にも立ち寄り水を補給した[33]。そのほかにも海上で遭遇した日本漁船と食料品などの物々交換を行っている[34]。8月に嵐に遭い船が損傷し、乗員も病気になったことから日本近海を去り、9月にグアム島に寄港した[35]。その後も捕鯨を続けた後、1832年6月にオーストラリアに帰還した[36]。
レディ・ロウエナ号の航海日誌はラッセルの子孫が保管していたが、1979年にニューサウスウェールズ州立図書館ミッチェル・ライブラリーに寄贈された[37]。
オーストラリア帰還後
ラッセルがオーストラリアに帰還する前に、イギリスに残した妻子はシドニーに到着していた。同年にラッセルはまた捕鯨航海に出発した後、1835年にニューサウスウェールズ植民地のメイトランドに定住し、雑貨店を開いた[38]。1836年に店の一部を銀行に貸すなど数年のうちに不動産業で成功し引退を考えたが、1840年代の不況により財産を失う。しかしその後、獣脂油を採る事業を始め、また地所から石炭鉱床が見つかった[39]。1855年にはハンターリバー・ニュー・スチーム・ナビゲーション・カンパニー(Hunter River New Steam Navigation Company)の社長を務めていた[40]。
政治活動
ラッセルは1856年ニューサウスウェールズ植民地選挙で、ノーザンバーランド・バラ選挙区(定数2)から立候補し、ジョージ・ニコルズに次いで2位当選した[41]。しかし3位で8票差だったイライアス・ウィークスが、投票資格がない人物20名以上がラッセルに投票したと抗議した。この抗議を調査した議会選挙・資格委員会(Assembly's Elections and Qualifications Committee)は、選挙結果を取り消しウィークスを当選とした[42]。翌1857年、ラッセルはニコルズの死去に伴い行われた補欠選挙に立候補したが落選した[43]。1858年にラッセルは立法評議会議員に任命され、1861年に最初の任期が満了した後は終身議員となった[4]。
