村垣定行 From Wikipedia, the free encyclopedia 村垣 定行(むらがき さだゆき、宝暦12年(1762年) - 天保3年3月10日(1832年4月10日))は江戸時代中期の旗本。最初の諱は「軌之(のりゆき)」。通称、豊吉・佐太郎・左太夫。淡路守。御庭番家筋の村垣本家4代目。子に範行、孫に範正(幕末の遣米使節の副使)がいる。 勘定吟味役兼御納戸頭の村垣軌文(のりふみ)の子として生まれる。安永7年(1778年)に小十人格お庭番として召し出される。天明7年(1787年)より9度に渡り「遠国御用」を務めている。お庭番家筋では最高の回数。 享和3年(1803年)に膳奉行、同4年(1804年)に勘定吟味役となる。文化2年(1805年)から翌年にかけ、松前・蝦夷地を視察。文化4年(1807年)10月、松前奉行に任命。在職中に従五位下淡路守となるが、文化9年に病のため松前奉行を辞職。文化10年(1813年)に作事奉行、文政元年(1818年)から天保3年(1832年)まで勘定奉行を務める。老中水野忠成の元で幕府財政を担当。諸国河川修復、金銀改鋳、江戸町会所貸付金管掌、諸国総石高検査など担当。天保3年(1832年)、在職中に死去。墓所は千代田区心法寺。 石高は勘定奉行就任時に500石となり、文政5年に200石、同12年に500石の加増を受け、1200石となる。 蝦夷地視察に際しては目付遠山景晋が同行しており、蝦夷地の記録を「西蝦夷日記」にまとめて幕府に提出した。 脚注 嫡男で村垣家5代目左太夫・範行の次男範正が天保2年(1831年)に分家し、与三郎・淡路守を名乗っており混同しやすい。範正は万延元年(1860年)、遣米副使としてアメリカに渡り、日米修好通商条約批准書を交換。 範行の初婚は、同じ御庭番家筋の川村修富(後に対馬守)の長女対(つい)である。婚姻2年目に死亡、子はなかった。 参考文献 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年2月) 深井雅海『江戸城お庭番』中公新書 『徳川幕臣人名事典』東京堂出版、2010年 表話編歴箱館奉行(蝦夷奉行・松前奉行)箱館奉行(蝦夷奉行)1802-1807 戸川安論 羽太正養 (松前奉行に改称) 松前奉行1807-1821 戸川安論 羽太正養 河尻春之 村垣定行 荒尾成章 小笠原長幸 服部貞勝 安藤雅久 本多繁文 夏目信平 高橋重賢 (松前藩の復領により廃止) 箱館奉行1856-1868 竹内保徳 堀利煕 村垣範正 津田正路 勝田充 糟屋義明 水野忠徳 小出秀実 新藤方凉(奉行並) 杉浦勝静 栗本鯤 織田信重 橋本悌蔵(奉行並) (明治維新により廃止) 典拠管理データベース 全般ISNIVIAFWorldCat国立図書館アメリカ日本 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles