ボー・ミャ
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1927年1月20日、カレン州パプン県フテイ・ムー・キー村(Hti Mu Khi village)に生まれる。アニミズムを信仰する家庭の生まれであり、セブンスデー・アドベンチスト派のキリスト教に改宗したのは1961年のことだった[2]。
小学校を4年生まで通った後、日本占領下で警察官となったが、密かにイギリス軍に情報を流していた。日本軍がカレン州から撤退した後は、第136部隊に参加し、日本軍と戦った[3]。
1948年にミャンマーが独立した後は、政府の連邦憲兵部隊 (UMP)に所属していたが、1949年にKNUが反乱を起こすと、カレン族の武装勢力の1つであるサルウイン大隊に参加。ボー・ミャはミャンマー軍(国軍)に協力的であったり、KNUに非協力的であれば、たとえカレン族であっても容赦せず、その村を焼き払った。1950年8月にKNU議長ソー・バウジーが国軍に殺害された際には、ソー・バウジーの隠れ家を密告した村人が住む村を焼き払い、皆殺しにしたとされる[3]。
このような強硬的な態度により、やがてボー・ミャはカリスマ的リーダーと目されるようになった[3]。
KNU議長
1950年代から1960年代にかけて、KNUは左右に分裂して派閥争いを繰り広げたが、当時東部管区の司令官だったボー・ミャ自身は、「共産主義は悪魔の道具」と言って憚らない強烈な反共思想の持ち主だった[4]。
1968年9月、マン・ハザン率いる左派がボー・ミャに合流してカレン民族統一戦線(KNUF)を結成、マン・バザンが議長、ボー・ミャが副議長に就任した[5]。その後、KNUの左派は退潮傾向に入り、1976年8月にはボー・ミャがKNU議長に就任し、さらに、カレン民族解放軍(KNLA)最高司令官、外務大臣、国防大臣も兼務、ここにボー・ミャの絶対体制が確立した[6]。
ボー・ミャ体制下のKNUは、国境密貿易により、当時の国家予算の3分の1とも言われる巨額の利益を上げ、繁栄を極めていたた[7][8][9][10]。反面、安逸を貪り、財政的にもっとも豊かな時代だったのにもかかわらず、領土を拡大することはできなかった[11]。
また、1976年には少数民族武装勢力の連合体・民族民主戦線(NDF)が結成され、ボー・ミャが議長に就任したが、1985年にNDFとCPBと歴史的な同盟を結んだ際、これに反発して議長を辞任。各武装勢力の足並みも揃わなかった[12]。
KNUの衰退
1988年11月、8888民主化運動における国軍の弾圧を逃れてきた民主派学生とNDFの連合体であるビルマ民主同盟(DAB)が、KNUの本拠地マナプロウで結成され、ボー・ミャが議長に就任した[15]。
しかし、1989年以降、国軍はKNU領土に激しい攻撃を加え、次々と重要な拠点を制圧していった[15]。同じく苦境に立たされたNDFおよびDABに加盟する他の少数民族武装勢力は、次々と政府と停戦合意を締結し、NDFおよびDABは事実上崩壊した[16]。
1995年には、ウ・トゥザナに率いられた仏教徒のKNU兵士たちが、KNUを離脱して民主カレン仏教徒軍(DKBA)を結成[17]。国軍はDKDBの協力を得てマナプロウを陥落させ、ここにボー・ミャ体制・KNUの凋落は決定的なものになった[18][19][17]。マナプロウ陥落直前に日本人ジャーナリスト・山本宗輔のインタビューに応えたボー・ミャは、「神のご加護があるから、あいつらは皆地獄に落ちる。マナプロウを落とせるわけがない」と述べ、それまでになく苛立った様子だったのだという[20]。
その後もKNUは分裂を繰り返して弱体化し続け、2000年の第12回KNU大会の議長選挙においてボー・ミャは敗北を喫し、副議長に降格した[21][22][23]。この段になって頑なに和平交渉を拒否していたボー・ミャも方針転換を余儀なくされ、2004年2月、KNU代表団を率いてヤンゴンで国家平和発展評議会(SPDC)の交渉役・キンニュン首相と会談した。しかし同年10月19日、停戦合意を正式なものにするためにKNU代表団がヤンゴンに向かっている途中でキンニュンが更迭され、停戦合意は白紙撤回された[24][25]。同年12月の第13回KNU大会でボー・ミャは引退を表明した[26]。