ポッポ (テューリンゲン公)
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ポッポはポッポ家(バーベンベルク家)出身で、東フランケン公ハインリヒの弟である[1]。他にエギノという弟もいる。3人ともグラープフェルト伯ポッポの息子か孫であったと考えられている。
ポッポは遅くとも880年までにラドゥルフ2世に代わりソルビア辺境伯となった[注釈 2]。この年、ダレミンツィ人、ボヘミア人、ソルブ人がテューリンゲンに侵攻し、ドイツと同盟を結んでいたスラヴ地方を焼き払うと脅した。これに対するポッポの遠征は、『フルダ年代記』の3つの異なる写本伝承にそれぞれ異なる形で記録されている[3]。ポッポがこの遠征でテューリンゲン人を率いたかどうかは定かではないが、勝利を収めた。
ポッポが882年、883年、884年に戦闘を行った理由は不明である[4]。前年、ポッポとテューリンゲン人は、弟エギノがザクセン人とともに起こした戦いで敗北していた[5]。883年、ポッポはテューリンゲンの共同公爵として記録されている弟エギノと再び戦い、惨敗を喫し、わずかな兵を率いて撤退を余儀なくされた[6]。
ポッポは892年に官職と爵位を剥奪された[7]。レギノ・フォン・プリュムによると、ポッポはヴュルツブルク司教アルンにスラヴ人遠征を進言し、892年前半にアルンが殺害された。ポッポの後任としてテューリンゲンではコンラート、アルンの後任としてルドルフが就任したが、いずれもコンラディン家であったため、東フランク王アルヌルフがコンラディン家を優遇した結果とみられている。コンラディン家とポッポ家(バーベンベルク家)は、その後まもなく対立するようになった。一方、ポッポはアルンの無謀な遠征の罰を受けた可能性がある。ポッポは899年に領土を回復し、903年にノルトガウ辺境伯に叙せられた。906年にはフォルクフェルト伯に叙せられたが、その後しばらくして亡くなった。