ポティトゥス・ウァレリウス・メッサッラ

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出生 紀元前76年ごろ
死没 不明
出身階級 パトリキ

ポティトゥス・ウァレリウス・メッサッラ
Potitus Valerius M. f. M. n. Messala
出生 紀元前76年ごろ
死没 不明
出身階級 パトリキ
氏族 ウァレリウス氏族
官職 財務官(時期不明)
首都担当法務官紀元前32年
神事遂行十五人委員会紀元前31年-)
補充執政官紀元前29年
前執政官紀元前25年-23年
総督代理紀元前19年-18年
担当属州 アシア属州紀元前25年-23年
シリア属州紀元前19年-18年
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ポティトゥス・ウァレリウス・メッサッラまたはマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ポティトゥスラテン語: Potitus Valerius Messala, Marcus Valerius Messalla Potitus紀元前76年ごろ - 没年不明)は紀元前1世紀後期・1世紀前期の共和政ローマ帝政ローマの政治家。紀元前29年補充執政官(コンスル・スフェクトゥス)を務めた。

メッサッラは、ローマで最も著名なパトリキ(貴族)であるウァレリウス氏族の出身である。ウァレリウス氏族の祖先はサビニ族であり、王政ローマロームルスティトゥス・タティウスが共同統治した際に、ローマへ移住したとされる[1]。その子孫に共和政ローマの設立者の一人で、最初の執政官であるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラがいる。その後ウァレリウス氏族は継続的に執政官を輩出してきた。

ポティトゥスは古くはウァレリウス氏族のコグノーメン(第三名、家族名)であったが、サムニウム戦争の頃に一旦消滅した。しかし後にプラエノーメン(第一名、個人名)として復活した。消滅した一族の名前をプラエノーメンに使うことは、当時よく行われていた[2]

ポティトゥスの父は紀元前53年の執政官マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフスと思われる。

経歴

ポティトゥスはその政治歴の初期において、アシア属州クァエストル(財務官)を務めたと思われる[3][4]紀元前32年にはプラエトル・ウルバヌス(首都担当法務官)となり[5]、翌年には神事遂行十五人委員会(quindecimviri sacris faciundis)の一人に選ばれた[6]

紀元前29年には離職した正規執政官セクストゥス・アップレイウスの後を受けて、補充執政官に就任する[7]カッシウス・ディオによれば、オクタウィアヌスエジプトから戻ったことを理由に、ポティトゥスは元老院市民の名のもとに、自ら牛を生贄にしたが、これは執政官としては最初のことであった[8]

紀元前25年から紀元前23年までの2年間、ポティトゥスはプロコンスル(前執政官)権限で、アシア属州の総督を務めた[9]マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが東方属州の総督に就任すると、ポティトゥスはレガトゥス(総督代理)として紀元前19年から紀元前18年まで、シリア属州を支配した[10]

子孫

ポティトゥスには、おそらく2人の子供がいたと思われる。マニウス・ウァレリウス・メッサッラ・ポティトゥスと、西暦5年に執政官を務めたルキウス・ウァレリウス・メッサッラ・ウォレススである。

脚注

参考資料

関連項目

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