ポーランド・コサック・タタール戦争
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ポーランド・コサック・タタール戦争 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
勝者の帰還 (画・ユゼフ・ブラント、19世紀) | |||||||
| |||||||
| 衝突した勢力 | |||||||
|
|
ブジャク・オルダ | ||||||
| 指揮官 | |||||||
|
|
アディル・ギレイ セリム1世ギレイ | ||||||
ポーランド・コサック・タタール戦争 (ウクライナ語:Польсько-козацько-татарська війна、ポーランド語:Wojna polsko - kozacko-tatarska)は、ポーランド・リトアニア共和国およびザポリージャ・コサックと、オスマン帝国およびヘーチマン国家、クリミア・ハン国との間で起きた戦い。1654年から1667年にかけて行われたロシア・ポーランド戦争の直後に起こり、さらには1672年からのポーランド・オスマン戦争 (1672年-1676年)へとつながった。
コサックによるポーランド・リトアニア共和国の支援
1666年、ヘーチマン国家のヘーチマンであるペトロ・ドロシェンコはウクライナ支配を狙ったが、同地を狙う他勢力(ポーランド・リトアニア共和国およびロシア・ツァーリ国)との争いに敗北し、最終手段としてオスマン帝国のスルタン・メフメト4世と条約を結び、自らが率いるコサックがオスマン帝国の属国となることを認めた。
その間、ポーランド・リトアニア軍はウクライナ支配の安定化を図るも、数十年に及ぶ戦い(フメリニツキー蜂起、大洪水時代、ロシア・ポーランド戦争)を経て弱体化した。この隙を突こうとクリミア・ハン国が国境を越えて侵攻し、ペトロ・ドロシェンコ率いるザポリージャ・コサックと同盟を結んだ。しかし、ヤン3世ソビエスキ率いるポーランド・リトアニア軍に阻止され、その後いくつかの戦闘を経た1667年10月6日から10月16日までのポドハイツェの戦い後に休戦した。
しかし1670年、ペトロ・ドロシェンコが再びウクライナ支配を試み、1671年にはポーランド・リトアニア共和国を支持するハーン・アディル・ギレイがオスマン帝国のスルタン・メフメト4世によって新たなハーン・セリム1世ギレイに交代させられた。セリム1世ギレイはヘトマン、ペトロ・ドロシェンコと同盟を結んだ。しかし1666年から1667年と同様に、コサック・タタール軍はヘトマンのヤン3世・ソビエスキに敗北した。その後、セリム1世ギレイはオスマン帝国スルタン・メフメト4世への忠誠の誓いを新たにし、支援を懇願した。メフメト4世はこれを承諾した。こうして散発的な国境紛争は正規の戦争へとエスカレートし、オスマン帝国は地域一帯の支配権を奪おうと正規部隊を戦場に送り出す準備を整えた。
1667年、ペトロ・ドロシェンコを認めないコサック指導者の一人に、イヴァン・シルコがいた[3]。 シルコのクリミア遠征 (1667年)は、ポドハイツェの戦いにおいてタタール人の支援をペトロ・ドロシェンコから逸らすなど大きな役割を果たした[3][4][5]。1670年9月2日、コサック指導者の一人、ミハイロ・ハネンコは、オストロフで条約に署名し、コサックの自治と引き換えに右岸ウクライナにおけるポーランド・リトアニアの支配を認めた。各勢力の代表者たちはシチで会談し、シルコはハネンコを支持、ドロシェンコには反対する姿勢をとった[6]。1670年から1671年にかけて、ハネンコとシルコはオスマン帝国、クリミア・ハン国、ブジャク・オルダへ共同で遠征し、ドロシェンコと対立するヤン3世を支援した[7]。ドロシェンコは彼らの同盟に対抗することはできなかった[8]。