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マジャパヒト王国

ジャワ島東部に存在したヒンドゥー教王国 From Wikipedia, the free encyclopedia

マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、ジャワ語: ꦏꦫꦗꦄꦤ꧀ ꦩꦗꦥꦲꦶꦠ꧀、インドネシア語: Kerajaan Majapahit)は、1293年にジャワ島東部で成立し、14世紀を中心に発展した王国である。王都は現在の東ジャワ州モジョケルト周辺に位置するトロウラン(英語版)に置かれたと考えられている。

公用語 古ジャワ語
首都 トロウラン
1293年-1309年 ウィジャヤ
1309年-1328年 ジャヤナガラ(英語版)
概要 マジャパヒト王国, 公用語 ...
マジャパヒト王国
1293年 - 16世紀前半
国章
マジャパヒト王国の位置
マジャパヒト王国の勢力圏を示す地図
公用語 古ジャワ語
首都 トロウラン
王
1293年 - 1309年 ウィジャヤ
1309年 - 1328年 ジャヤナガラ(英語版)
1328年 - 1350年 トリブワナ・ウィジャヤトゥンガデウィ(英語版)
1350年 - 1389年 ハヤム・ウルク(英語版)
1389年 - 1429年 ウィクラマワルダナ(英語版)
宰相
1334年頃 - 1364年 ガジャ・マダ
変遷
建国 1293年
王都をめぐる政治的変動 15世紀
最終的な政治的解体 16世紀前半
先代 次代
1478年を滅亡年とする説と、1527年頃を最終的な滅亡とする説がある。
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マジャパヒトは、シンガサリ王国の王統を継承する形で成立し、ハヤム・ウルクの治世と宰相ガジャ・マダの時代に最盛期を迎えた。14世紀のマジャパヒトについては、宮廷詩人プラパンチャ(英語版)が1365年に著した『ナーガラクルターガマ』が重要な史料となっている。同書はハヤム・ウルクの巡幸、王族、行政、宗教、経済、交易、周辺地域との関係などを記録しており、2013年にはユネスコの世界の記憶に登録された[1]。

マジャパヒトの勢力は最盛期にジャワ島外の広範な地域にも及んだと考えられている。ただし、『ナーガラクルターガマ』などに記された地域がすべてマジャパヒトの行政機構によって直接統治されていたことを意味するわけではない。ジャワ島の王都周辺における直接的な支配と、周辺地域との貢納・外交・軍事・婚姻・交易などを通じた政治的関係とは区別して考える必要がある[1]。

マジャパヒトの衰退は、王位継承をめぐる内紛、地方勢力の自立、海上交易網の変化など複数の要因によって進行した。1478年をマジャパヒトの滅亡年とする説が伝統的に知られている一方、1478年以後もマジャパヒトの王統・政治勢力が存続したことを示す史料があり、16世紀前半までに段階的に政治的解体が進んだとする見解もある[2]。

名称

「マジャパヒト」(Majapahit)は、古ジャワ語の語で、一般に「苦いマジャ」といった意味に解されている。「マジャパイト」と表記されることもある。マジャパヒト王国を指す名称は史料によって異なり、王統や王都、王家を指す語が用いられる場合もある。現代の「Majapahit」は、王国を総称する名称として定着している。

歴史

成立

13世紀後半、ジャワ島東部ではシンガサリ王国が勢力を拡大していた。シンガサリ王クルタナガラはスマトラ島などへの進出を進め、元朝との関係も緊張した。

1292年、クルタナガラはジャヤカトワン(英語版)の反乱によって殺害され、シンガサリ王国は一時的に崩壊した。クルタナガラの娘婿であったラデン・ウィジャヤはジャワ島東部に逃れ、勢力を形成した。

1293年、元朝の軍隊がジャワ島へ遠征すると、ウィジャヤはこれを利用してジャヤカトワンを攻撃し、元軍がジャワ島を離れた後に独立した。ウィジャヤは同年に王位に就き、クルタラジャサ・ジャヤワルダナ(Kertarajasa Jayawardhana)を称した。これがマジャパヒト王国の成立である。

王都は現在のトロウラン(英語版)周辺に置かれたと考えられている。トロウラン遺跡には、居住地、道路、水路、貯水池、宗教施設、工房などの遺構が存在し、マジャパヒトの都市構造を研究するうえで重要な考古学的資料となっている[3]。

初期のマジャパヒト

ウィジャヤの死後、1309年にその子ジャヤナガラが王位を継承した。ジャヤナガラの治世には王族や有力者による反乱が相次いだが、これらは鎮圧された。

1328年、ジャヤナガラが死去すると、王統はクルタナガラの娘ラジャパトニとその娘トリブワナ・ウィジャヤトゥンガデウィ(英語版)の時代へ移行した。ラジャパトニは出家していたため、トリブワナが王として統治したとする史料と、ラジャパトニを王統上の君主として扱う史料がある。

トリブワナの治世にはガジャ・マダが台頭した。ガジャ・マダは後に宰相(mahapatih)としてマジャパヒトの政治・軍事を主導することになる。

勢力拡大

ガジャ・マダの事績については、『パララトン』などのジャワ語史料が重要である。同書には、ガジャ・マダがジャワ島外の諸地域を制圧するまで享楽を控えると誓ったとされる「パラパの誓い」が記されている。ただし、パラパの誓いを含む『パララトン』の記述は、マジャパヒト時代から一定期間を経て成立した史料であり、記載された征服事業をそのまま同時代の軍事行動として復元することには限界がある。

1343年頃にはバリ島への軍事遠征が行われたとされ、以後、マジャパヒトの王権はジャワ島外の諸地域との関係を強めた。

最盛期

1350年、トリブワナの子ハヤム・ウルクが即位した。ハヤム・ウルクはラージャサナガラ(Rajasanagara)とも称した。

ハヤム・ウルクの治世は、マジャパヒトの政治的・文化的最盛期とされる。宰相ガジャ・マダの政治的指導のもと、ジャワ島東部を中核として周辺地域との関係が強化された。

1365年、プラパンチャによって『ナーガラクルターガマ』が完成した。正式には『デシャワルナナ』(Desawarnana)とされるこの作品は、ハヤム・ウルクの王都や巡幸、王族、行政、宗教施設、経済、社会、周辺地域などを記録している[1]。

『ナーガラクルターガマ』には、スマトラ島、マレー半島、カリマンタン島、スラウェシ島、ヌサ・トゥンガラ、マルク諸島などに比定される多数の地名が登場する。このため、マジャパヒトが当時の島嶼部東南アジアに広範な影響力を持っていたことを示す史料として利用されている。ただし、これらすべての地域がジャワ島の王都から直接行政的に統治されていたとは限らない。マジャパヒトの政治秩序は、王都周辺の直接支配地域と、在地支配者との貢納・外交・軍事・婚姻・交易などによる関係が重なり合う構造であったと考えられている。

ブバットの戦い

1357年、スンダ王国の王族一行がマジャパヒト王都を訪れた際、ブバットで両者の間に衝突が起きたとされる。この事件はブバットの戦い(英語版)として知られている。ジャワ語史料や後世のスンダ側史料では、スンダ王女ディア・ピタロカ(英語版)とハヤム・ウルクとの婚姻をめぐる政治的対立が事件の背景として描かれている。

ただし、この事件を伝える史料には王統伝承や文学的要素も含まれている。そのため、具体的な経過については史料ごとの成立時期と性格を考慮する必要がある。

ハヤム・ウルク死後の政治的変動

1389年にハヤム・ウルクが死去すると、王位は娘婿のウィクラマワルダナ(英語版)に継承された。ハヤム・ウルクの死後、王族間の王位継承争いが顕在化し、マジャパヒトの政治的統合は次第に弱まった。

パルグルグ戦争

1404年から1406年にかけて、マジャパヒトでは王族間の内戦であるパルグルグ戦争(インドネシア語版)が発生した。この内戦は王権の権威を低下させ、地方の有力者や港市が自立する傾向を強めたと考えられている。一方、マジャパヒトはその後もジャワ島東部を中心とする政治勢力として存続している。

15世紀の変化

15世紀には、マラッカ王国がマレー半島の国際交易拠点として発展した。またジャワ島北岸では、グレシク、トゥバン、ドゥマクなどの港市が成長し、イスラム教徒の商人・政治勢力が次第に重要性を増した。この変化は、マジャパヒトを中心とするジャワ島東部の政治秩序と、マレー半島・ジャワ島北岸を結ぶ海上交易網との関係を変化させた。

15世紀以降のマジャパヒトの衰退をイスラム教の拡大だけによって説明することはできない。王位継承をめぐる内紛、地方勢力の自立、港湾交易の変化などが複合して王権の政治的影響力が低下したと考えられる。

政治・社会制度

マジャパヒトは王を中心とする王権国家であり、王族、貴族、官僚、地方有力者などによって統治されていた。王の側近には高位官僚が置かれ、宰相に相当するマハーパティ(英語版)は重要な役割を担った。ガジャ・マダはその代表的存在である。

『ナーガラクルターガマ』には王族や官僚、宗教施設、地方行政などについての記述があり、14世紀の政治制度を知るための重要な史料となっている[1]。

特にジャワ島外の地域では、王都からの直接統治ではなく、在地の支配者を介した貢納・外交関係によって王権との結び付きが維持されていたと考えられる。

経済・交易

マジャパヒトの経済は、ジャワ島の農業と海上・河川交易によって支えられていた。

東ジャワでは水利施設が整備され、トロウラン周辺には多数の水路、貯水池、ダムなどが確認されている。これらは農業用水の確保、都市への給水、洪水調節などに利用されたと考えられている[3]。トロウラン遺跡からは土器、陶磁器、金属製品、石製品、テラコッタ製品など多様な遺物が発見されている。中国など東アジア産の陶磁器も出土しており、マジャパヒトの都市が広域的な交易網と結び付いていたことが示されている[3]。

ジャワ島はスマトラ島、マレー半島、カリマンタン島、スラウェシ島、モルッカ諸島などと海上交通によって結ばれていた。香辛料、米、森林産物、陶磁器などが地域間交易の対象となった。

対外関係

元朝・中国との関係

マジャパヒトは成立時に元朝のジャワ遠征を経験したが、その後は中国王朝との外交・交易関係を維持した。元軍のジャワ遠征は、クルタナガラ死後のジャワの内戦と結び付いており、ラデン・ウィジャヤは元軍を利用してジャヤカトワンを討った後、元軍をジャワから退去させた。

その後、マジャパヒトは中国との朝貢・交易関係を維持し、明代には中国の史料にもジャワからの使節に関する記録が残されている。

鄭和の航海

15世紀前半、明の鄭和が率いる大規模な航海船団が東南アジア各地を訪れ、ジャワもその航路の一つとなった。鄭和の航海は、当時の東南アジアにおける中国、ジャワ、マレー半島などの外交・交易関係を知るうえで重要である。ただし、鄭和の航海をマジャパヒト衰退の直接的な原因とみなしたり、マラッカ王国の成立を単純に「鄭和艦隊の保護下」と説明したりすることには注意が必要である。

周辺地域との関係

マジャパヒトは、スマトラ島、マレー半島、ボルネオ島、スラウェシ島、バリ島、ヌサ・トゥンガラ、マルク諸島などの諸地域と、軍事・外交・婚姻・貢納・交易など多様な関係を持った。

『ナーガラクルターガマ』には、ジャワ島外の多数の地名が記録されているが、それらの政治的地位は一様ではなかったと考えられる[1]。

宗教

マジャパヒトでは、シヴァ派などのヒンドゥー教と仏教が王権・宮廷文化と深く結び付いていた。一方、ジャワ固有の信仰や祖先崇拝なども存在し、当時の宗教生活を現代的な宗教分類だけで理解することはできない。

『ナーガラクルターガマ』には宗教施設や宗教的職能者についての記述があり、14世紀の宗教制度を知る重要な史料となっている[1]。

15世紀以降にはジャワ島北岸の港市を中心にイスラム教の影響が拡大した。しかし、イスラム教の拡大とマジャパヒトの政治的衰退は完全に同時に起きたわけではなく、ヒンドゥー教・仏教的文化も王国の末期まで存続した。

文学

マジャパヒト時代には古ジャワ語による文学が発展した。代表的な作品として、プラパンチャによる『ナーガラクルターガマ』や、ムプ・タントゥラル(英語版)による『スータソーマ(英語版)』などが挙げられる。

『ナーガラクルターガマ』は1365年に完成し、ハヤム・ウルクの治世、王都、王族、地方、宗教、行政、経済などを記録している[1]。同書は2013年にユネスコの世界の記憶に登録された[4]。

建築・美術

マジャパヒト時代の建築では、赤煉瓦を主要な建材とした建築物が多く見られる。代表的な遺跡には、バジャン・ラトゥ(英語版)門、ウリンギン・ラワン(英語版)門、チュトゥス寺院(英語版)などがある。

トロウランでは宗教施設だけでなく、道路、水路、貯水池、居住地、工房などの遺構が確認されている[3]。

トロウラン遺跡

マジャパヒトの王都に比定されるトロウラン遺跡は、東ジャワ州モジョケルト周辺に広がる大規模な考古遺跡である。

ユネスコの世界遺産暫定一覧表では、「Trowulan - Former Capital City of Majapahit Kingdom」として2009年に登録されている。暫定一覧表の記載によれば、遺跡の範囲はおよそ11 km × 9 kmに及び、居住地、宗教施設、工業施設、道路、水路、貯水池など多様な遺構が確認されている[3]。

トロウランでは、20世紀以降に本格的な考古学調査が行われ、航空写真や発掘調査によって古代都市の水路網や都市構造が研究されてきた。水路と貯水池のネットワークは、農業、給水、洪水調節など複数の目的に利用されたと考えられている[3]。

トロウラン遺跡は、マジャパヒトの政治史だけでなく、当時の都市生活、農業、水利技術、工芸、交易、宗教などを研究するうえでも重要である。

マジャパヒトの終焉

1478年説

マジャパヒトの滅亡年については、1478年を採る説が広く知られている。

1478年説は、主として『パララトン』などのジャワ語史料に記された出来事を根拠としている。しかし、1478年にマジャパヒトが完全に消滅したと解釈できるかについては議論がある。また、後世に成立した『ババッド・タナ・ジャウィ(英語版)』などでは、ドゥマク王国のラデン・パタハ(英語版)とマジャパヒトの王統との関係や、ドゥマクによるマジャパヒト征服が語られている。

しかし、これらの後世の王統伝承を同時代の出来事としてそのまま扱うことには注意が必要である。特にラデン・パタハをマジャパヒト最後の王の息子とする物語には、後世のジャワ王統伝承の要素が含まれている[2]。

16世紀前半の終焉

一方、マジャパヒトが1478年以後も一定期間存続したとする史料・研究も存在する。

『Kronik Tionghua Semarang』については史料そのものの成立事情・信頼性に問題が指摘されているものの、同史料はマジャパヒトの最終的な滅亡を1527年としている。この1527年という年代は、オランダの歴史学者ヘルマン・ヨハネス・デ・グラーフ(英語版)とテオドール・ゴーティエ・トーマス・ピゲオー(英語版)が独立に到達した年代とも関連している[2]。また、16世紀初頭のジャワ島では、ドゥマクをはじめとするイスラム系港市勢力が成長していた。こうした勢力の拡大にともない、マジャパヒトの政治的影響力は次第に縮小した。

したがって、マジャパヒトの終焉については、1478年を王都を中心とする旧来の政治秩序の大きな転換点とし、16世紀前半に最終的な政治的解体が進んだとする理解がある[2]。

後世への影響

マジャパヒトは、後世のジャワおよびインドネシアの歴史認識において重要な位置を占めている。特に『ナーガラクルターガマ』に記録された王国の広域的な政治関係は、後世におけるジャワの歴史認識の重要な資料となった。

近代以降のインドネシアでは、マジャパヒトは植民地支配以前の歴史を象徴する王国の一つとして再評価された。ただし、現代のインドネシア共和国の領域とマジャパヒトの勢力圏をそのまま同一視することはできない。

マジャパヒトの政治関係は地域ごとに異なり、現代国家のような固定的な国境を持つ領域国家とは異なる政治構造を有していたと考えられる。

史料

マジャパヒト史の研究では、碑文、銅板文書、ジャワ語文学、中国史料、考古学資料などが利用されている。

ナーガラクルターガマ

『ナーガラクルターガマ』は、プラパンチャによって1365年に完成した古ジャワ語の作品である。同書にはハヤム・ウルクの巡幸、王都、王族、行政、宗教、経済、地方、周辺地域との関係などが記されている[1]。

パララトン

『パララトン』は、シンガサリ王国からマジャパヒト王国に至る王統と歴史を記したジャワ語史料である。ラデン・ウィジャヤ、ジャヤナガラ、トリブワナ、ハヤム・ウルク、ガジャ・マダなどについて記述しているが、成立年代や史料としての性格については研究上の議論がある。

中国史料

元・明代の中国史料には、ジャワからの使節や東南アジア諸国との外交関係についての記録が残されている。これらはジャワ語史料とは異なる視点からマジャパヒトの対外関係を検討するための重要な資料となっている。

マジャパヒトの領域をめぐる議論

マジャパヒトの勢力範囲については、現在も研究上の議論がある。

伝統的な歴史叙述では、マジャパヒトは14世紀に現在のインドネシア諸島の広範な地域とマレー半島に勢力を及ぼした「帝国」として描かれることが多い。一方、近年の研究では、『ナーガラクルターガマ』に記載された地名をそのまま近代的な意味での「領土」と解釈することには慎重である。マジャパヒトの王権が直接統治した地域と、貢納、外交、婚姻、軍事、交易などによって結び付いた地域を区別する必要がある。

したがって、マジャパヒトについては、「インドネシア諸島全域を直接支配した国家」とする単純な説明よりも、ジャワ島東部を政治的中核として、周辺地域との多様な関係によって広域的な政治秩序を形成した王国として理解する方が適切である。

脚注

参考文献

外部リンク

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