現在のポーランドのジャガンに生まれた。父親のユリウス・シュリヒティングは工学者で、ベルリンのシャルロッテンブルク王立工科大学(後のベルリン工科大学)で教授になる人物である。1885年から1892年の間、プロイセン美術アカデミーでフランツ・スカルビナやヴォルデマール・フリードリヒ、オイゲン・ブラヒトらに学び、その後、パリに移り、私立美術学校のアカデミー・ジュリアンでも学んだ。
美術団体のベルリン芸術家協会(Verein Berliner Künstler)の会員になり1899年にベルリン分離派の会員なったが、1901年には16人ほどのメンバーとともに分離派の運営方法に異議を唱えて脱退した[1]。それでも、1902年にはオイゲン・ブラヒトやフランツ・スカルビナといった有力な画家とともに、ベルリンを代表して、ミュンヘンのガラス宮殿の展覧会に出展し、その頃、出版社のEdler & Krischeが開いたポスター・コンクールでも優勝した。
1904年には、セントルイス万国博覧会に参加し、大ベルリン美術展ではシュリヒティングの特別展示が行われ、1911年には金メダルが授与された。
1919年から1921年まで彼はベルリン芸術家協会の会長を務め、その後名誉会長の称号を得た[2] 。イタリアで描いた作品の展覧会が1925年に開かれ、1929年に出版された協会の記念誌「Hundert Jahre Berliner Kunst im Schaffen des Vereins Berliner Künstler (ベルリン芸術家協会の作品に見るベルリン芸術の100年)」の序文を書いた[3]。
パリなどの街や観光地の風景など、一般の人々に人気のある題材の作品を描いて人気を得た。
オーバーバイエルンのバート・テルツ(Bad Tölz)で没した。