ポリネシア人は、少なくとも西暦900年あるいは1000年頃からマニヒキ環礁に居住していたと考えられている[3]。現地の伝承によれば、この環礁はラロトンガ島出身の漁師フクによって発見された。彼は海に浅瀬があることに気づき、そこを自分の漁場であると主張した。その後、この浅瀬はマウイによって釣り上げられ、ラカハンガ環礁(英語版)となった。フクは戻ってくると、自分のものだと考えていたその土地を巡ってマウイと争った。マウイは追い払われたが、その争いの最中に新しい土地の一部が分離してしまい、それがマニヒキ環礁となった[4]。
マニヒキ環礁は元来、約40kmほど離れたラカハンガ環礁の住民による食料の供給地として利用されていた。数年ごとに住人全員で危険を冒して環礁間を渡り、無人となった方の環礁の資源が回復するのを待った。ラカハンガ環礁では全員が一つの村で共に暮らしていたが、マニヒキ環礁滞在時は、各部族集団がそれぞれの首長の下、別々の小島にある別々の村に分かれて暮らしていた。
1606年、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスがこの環礁を最初に発見し、「ヘンテ・エルモサ(Gente Hermosa)(美しい人々)」と呼んだ[5]。1822年10月13日、アメリカのグッド・ホープ号によって目撃された際、パトリックソン船長によって「ハンフリー島」と名付けられた[6]。
1828年には捕鯨船ガンジス号がこの環礁を発見し「グレート・ガンジス島」と名付けたほか、他の捕鯨船も「リデラス」、「グランド」、「サラ・スコット」、「ペスカド」などと名付けた。探検家たちによって繰り返し改名されたが、現在この環礁は先住民による本来の名前であるマニヒキと呼ばれている。
1889年、住民の一部が宣教師に反発し、タヒチに駐在していたフランス当局に環礁の併合を要請した。これを受け、フランスは軍艦を派遣したが、マニヒキの宣教師は抵抗としてイギリス国旗を掲げた。そのため、軍艦は上陸部隊を送ることなく撤退し、フランスによる併合は実現しなかった[7]。
グアノ島法に基づきアメリカ合衆国が領有権を主張したものの、アメリカはこの主張を実行に移すことはなく、1889年8月9日、イギリス海軍HMSエスピエグル艦長A.C.クラーク司令官により英国の保護領と宣言された。1901年にはクック諸島の他の島々と共にニュージーランドの統治下に置かれた[6]。1980年、クック諸島・アメリカ合衆国海洋境界条約(英語版)に基づき、アメリカはマニヒキ環礁およびその他3島に対するクック諸島の主権を承認した。