マリア・コムネナ (1152-1182)
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| マリア・コムネナ Μαρία Κομνηνή | |
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マリア・コムネナ(右)とアニェス・ド・フランス(左)。1179年頃の装飾写本より[注釈 1]。 | |
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| 出生 |
1152年3月 東ローマ帝国、コンスタンティノープル |
| 死去 |
1182年7月(30歳没) |
| 配偶者 | ラニエーリ・デル・モンフェッラート |
| 家名 | コムネノス家 |
| 父親 | 東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノス |
| 母親 | ベルタ・フォン・ズルツバッハ |
マリア・コムネナ(ギリシャ語:Μαρία Κομνηνή, 1152年3月 - 1182年7月)は、東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスと最初の妻ベルタ・フォン・ズルツバッハの長女[4]。マリアは「紫の部屋で生まれた」、つまりコンスタンティノープルの宮殿で現皇帝の妻から生まれたことから、ポルフィロゲネテ(Πορφυρογέννητη)またはポルフィロゲニタとして知られていた。
マリアは恐らく1152年3月に生まれた。歴史家ヨハンネス・キンナモスによれば、マリアは誕生時にアウグスタの称号を与えられた。1163年、マリアは後のハンガリー王ベーラ3世と婚約した。マヌエル1世はもはや嫡子をもうける見込みがなかったため、当時、ベーラ3世(マヌエル1世はベーラ3世に新たな宮廷の地位である専制公の称号を与え、「アレクシオス」と改名していた)を後継者に指名する準備を整えていた。この婚約は、マヌエルの息子アレクシオスが生まれた直後の1169年に破棄された。その後、マリアはシチリア王グリエルモ2世と婚約したが、これも父によって破棄された。そして1179年、マリアはラニエーリ・デル・モンフェッラートと結婚した。レニエは「ヨハネス」と改名され、カエサルの称号を与えられた。
1180年に皇帝マヌエルが崩御した後、マリアとラニエーリは、幼い息子アレクシオス2世(後の皇帝)の摂政を務めていた継母マリー・ダンティオケに対する陰謀に関与した。マリアとラニエーリに扇動され皇后に対する反乱が勃発したが、権力奪取の試みは失敗に終わった。二人はその後まもなく、マヌエルの父方の従兄弟であるアンドロニコス・コムネノスが摂政の座を奪取した直後に、毒殺されたとみられる。
マリアは生涯子供を産まなかったと見られる。