カルロが殺害されたことにより、マリアはナポリからアヴィニョンに逃亡し、教皇クレメンス6世に助けを求めた。1348年、黒死病がイタリア半島を襲い、ハンガリー王とその軍の大半は、蔓延する伝染病から逃れるためにハンガリーへの帰還を余儀なくされた。マリアはナポリに戻り、卵城(カステル・デローヴォ)に落ち着いた。
『Chronicle of Parthénope』によると、ハンガリー王ラヨシュ1世は最初の南イタリア遠征の際にマリアを監禁し、マリアに求婚したという。1350年夏のアヴェルサ包囲の間に、ラヨシュ1世はマリアの使節にトレントラ=ドゥチェンタ近くで会い、ラヨシュ1世とマリアとの結婚が決まったという。しかし、結婚式が行われる前に、マリアはアヴェッリーノ伯ウゴーネ4世・デル・バルツォに再び誘拐され、ウゴーネ4世の長男で嗣子のロベルトと結婚させられた[3]。2人の間に子供は生まれなかった。
アヴェッリーノ伯ウゴーネ4世は1351年にマリアの義兄ターラント公ルイージの命で殺害された。2年後の1353年、マリアはハンガリー王ラヨシュ1世に救出された。夫ロベルトは捕らえられ卵城に監禁され、マリアの命により殺害された。マリアは直接その殺害を目撃していたと伝えられている[5]。
2番目の夫ロベルトの死後間もなく、マリアは義兄ターラント公ルイージにより再び監禁され、1355年4月のルイージの弟フィリッポ2世との結婚後に釈放された。マリアとフィリッポ2世との間には以下の早世した3男が生まれ、1362年と1366年にそれぞれ男子を死産している[6]。
- フィリッポ(1356年生)
- カルロ(1358年生)
- フィリッポ(1360年生)
1364年、フィリッポ2世は兄ロベルトの死により名目上のラテン皇帝、アカイア公およびターラント公の位を継承した。
祖父ロベルト1世は遺言で、マリアの姉ジョヴァンナ1世が嗣子なく死去した場合は、マリアの子孫をナポリ王位の継承者とするとしていた。1366年にマリアが死去したとき、マリアの3人の娘に王位継承権が引き継がれ、最終的に末娘マルゲリータの夫カルロが1382年にカルロ・ディ・ドゥラッツォとしてナポリ王となった[7]。マリアは37歳で恐らく出産時の合併症により死去し、ナポリのサンタ・キアラ教会に埋葬された。