マルシャル・ゲルー
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1891年12月15日、フランス北西部の港湾都市ル・アーヴルに生まれた。第一次・第二次世界大戦にてフランス軍に従軍し、レジオンドヌール勲章を1度、クロワ・ド・ゲール勲章を2度授与されている。ドイツ軍の捕虜になった時期があったが、そのときにヨハン・ゴットリープ・フィヒテについての論文を書き始めた。この原稿が、後に処女作『フィヒテにおける知識学の進化と構造』として出版される[2]。
ゲルーはストラスブール大学の教員として学者としてのキャリアを開始した。1930年代、ゲルーはブラジルのサンパウロ大学に数年滞在し、他のフランスの知識人たち(ロジェ・バスティード、クロード・レヴィ=ストロース、ピエール・モンベーク、ポール・ユゴン、シャルル・モラゼ、フェルナン・ブローデル)と協働し、この大学にできたばかりの社会科学科の発展に寄与した[3]。その後、ソルボンヌ大学からのオファーを受けてフランスに帰国したが、1951年にはエティエンヌ・ジルソンの後を継いでコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。ゲルーが受け持った講座名は、「哲学的諸体系の歴史と技術」というもので、1962年に退官するまでそこで教鞭をとり続けた。
思想
ゲルーの仕事の特徴、それは哲学史に対する敬意――彼にとって哲学史は哲学そのものと同じくらい価値あるものである――、そして体系性を強く求める志向である。彼はまた、哲学的に超越(者)へ訴えることを強く拒んだ。デカルト解釈を巡ってフェルディナン・アルキエと激しく論争を行ったが、そのポイントは、ゲルーが「理性の秩序にならって(=共時的に)」読もうとするのに対し、一方のアルキエは、デカルトを取り巻いていた歴史的状況に、より注意を向けた通時的な研究態度を取る、という対立であった。ゲルーが関心をもっていたのは、「哲学史の可能性の条件」一般なのである。彼は二巻からなる大著『ディアノエマティック(Dianoématique)』を完成させる前に亡くなったが、第1巻の題名は『哲学史の歴史』、第2巻は『哲学史の哲学』と名付けられていた。第2巻の扱う問い、それは次のように表現される。「哲学が永遠の真理を探求する営みであり、歴史学は懐疑主義の学問であるが、では哲学史はいかにして可能なのだろうか?」