ブラジルの逃亡奴隷の集落は、キロンボ(英語版)(quilombo)と呼ばれる。1570年以降、ブラジル北東部のバイーア、ペルナンブーコ、アラゴアスに拡大し、18世紀には南東部のサンパウロ州からミナス・ジェライス州まで広まった。密林地帯や山間の僻地に、矢来と塀で固めた50軒から数千軒の集落を形成した。農耕や狩猟、漁労に従事するほかに、白人の居住地やプランテーションを襲い、あるいは交易を行った。最もよく知られたキロンボのひとつは、17世紀はじめにブラジル北東部の逃亡奴隷によって作られた逃亡奴隷による逃亡奴隷国家、キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)(Quilombo dos Palmares)である。2万人以上の自由な男と女と子供が、不死身であると信じられていたズンビ(Zumbi dos Palmares)によって統治されていた。パルマーレスは100年近く独立国家として栄えたが、ポルトガル政府はキロンボを植民地体制への脅威とみなした。1695年のpt:Guerra dos Palmaresでは、ドミンゴス・ジョルジ・ヴェーリョ(英語版)によって率いられたポルトガル軍の攻撃によってパルマーレスは消滅した。ズンビは殺害され、レシーフェの街の広場に遺体は晒し者にされた。ズンビが殺害された11月20日は、現在もブラジルで「黒人意識の日」となっている。
スリナムのマルーン約2000人は、スリナムとフランス領ギアナの間を流れる境界線のラワ川(英語版)沿いに住んでいる。白人の農園主と植民地の軍隊に対する引き延ばされた抗争の後に、彼らはそこから逃げた。ジョン・ガブリエル・ステッドマン(1744年 - 1797年)の著書 "Narrative of a Five Years Expedition Against the Revolted Negroes of Surinam" によると、スリナムで見つけられた他のマルーン部族は、サラマカ(英語版)(Saramaka)、パラマカン(英語版)(Paramakans)、ンデュカ(英語版)(Ndyuka)、アウカン(英語版)(Aukan。現在はンデュカと同一視している)、キンティ(英語版)(Kwinti)とマタワイ(オランダ語版)(Matawai)であった。1770年までには、5,000か6,000人のマルーンがいたとされている。1863年、スリナムでの奴隷制度廃止のときには、マルーンの数は10,000人(これに対して、38,545人の奴隷がいた)、1972年にはマルーンは35,838人、2004年には72,553人であった。これはスリナムの総人口の15%である。
ジャマイカでは、マルーンは中米のアラワク族やミスキート族の人々と結婚をして、17世紀にスペインから英国の統治に替わった時に、未開発地で独立した生活を営んだ。ジャマイカのマルーンは、奴隷制度と、英国からのジャマイカの独立に対して闘った。皮肉にも、彼らは捕らえた奴隷を返すのに利用されて、また、英国に対するフランスやスペインからの攻撃にも戦った。彼らの多くは1796年に後にノバスコシア州に移住させられ、後に解放奴隷として500人程のジャマイカのマルーン達がシエラレオネのフリータウンに移住した(en:Jamaican Maroons in Sierra Leone)。