マンナ (競走馬)
イギリスの競走馬・種牡馬
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来歴
マンナは、アイルランドのキルデア県にあるコンフェイスタッドで、ジェームズ・J・マーハーによって生産された鹿毛の馬であり、ブリーダーズ・レビュー誌は同馬を非の打ち所がない素晴らしい馬と評している[1]。
1歳時にドンカスターのセリ市に上場された際、上海を拠点とする地金商ヘンリー・E・モリスの代理人を務めていたフレッド・ダーリング調教師によって6300ギニーで落札された。なお、ダーリングはモリスから電報で「セリ市で最高の1歳馬を買うように」という指示を受けていた[2]。
マンナはウィルトシャー州ベッカンプトンにあるダーリングの厩舎で調教を受け[3]、活発で気性の激しい馬であることが判明した[4]。
後にモリスは、同馬を天からの贈り物だと感じていたため、母ワッフルズが食べ物に由来することに因んで、聖書に登場する食物であるマナから名前を取ったと語っている[5]。
競走馬時代
2歳(1924年)
重要な2歳戦として知られるサンダウン競馬場のナショナルブリーダーズプロデュースステークスでデビューすると、厩舎内での評判の高さもあり圧倒的な1番人気に支持され[6]、勝利は逃したがガーデンオブアラーの3着。
続く7月のグッドウッド競馬場でのリッチモンドステークスでは期待に応えて勝利。
更にケンプトンパーク競馬場のインペリアルプロデュースステークスに出走すると、同年の最優秀2歳牡馬となるピカルーンに次ぐ2着[7]。
ミドルパークステークスでは、最後の1ハロンで先頭に立ったが終盤で他馬に交わされ、ピカルーンとソラリオに続く3着[8]。
同年最後の出走となったニューマーケット競馬場のモールトンステークスでは、クロスボウを破って勝利。
3歳(1925年)
同年の春は異例の多雨であり馬場状態が悪化していたため、競走馬の調整は困難を極めた[4]。13頭立てで行われた2000ギニーステークスにおいてマンナは万全ではないと思われたため、スティーブ・ドノヒューを鞍上に単勝13.5倍でレースを迎えたが、スタートから先頭に立つとそのまま2着のセントビーカンに2馬身差付けて快勝[9]。
次走はダービーステークスとなったが、父ファラリスがスプリンターであったため、重馬場の1.5マイル戦に絶えるスタミナがあるか疑問視されていた[4]。単勝オッズは9対1で、ニューマーケットステークスを制したクロスボウが単勝5.5倍の1番人気に支持される一方、マンナは単勝10倍となった。国王及び王妃など王族を含む大観衆が見守る冷たい激しい雨の中で行われたレースでは[6]、序盤は先頭を行くダルマガリーを追走して中盤に先頭に立ち、直線で他馬を引き離して8馬身差で勝利した。なお、この着差は史上最大のもので、1981年にシャーガーが10馬身差で勝利するまで破られなかった。ダービーステークス6勝目を挙げたドノヒュー騎手の人気もあり、マンナの勝利は熱狂的に迎えられた。レース後、ドノヒューは、マンナが促すことなく先頭へ飛び出したことや、一度も鞭を使わなかったことを語った[5]。
ロイヤルアスコット開催のアスコットダービーにおいて、ダービーステークス4着のソラリオより10ポンド重い斤量を背負い[10]、僅差で3着に敗れた。これを受けてマンナとソラリオの比較が盛んにおこなわれ、ソラリオがダービーでマンナに敗れたのは単に調整不足が原因だったとする識者も現れた[11]。
三冠達成の掛かったセントレジャーステークスでは、ソラリオと並ぶ単勝4.5倍の1番人気に支持され、1000ギニーステークスとオークスステークスを制した無敗の牝馬ソーシースーが直前で出走を取り消したことに加え[12]、レース前は素晴らしい状態に見えたことから期待された。序盤は先頭に立って力強い走りを見せたが、1マイルを過ぎて先頭を譲るとそのまま失速し[13]、ソラリオが勝利する一方で15頭立ての10着に終わった[14]。デイリー・テレグラフはマンナが肉球に棘が刺さった疲れ切った老犬の如く足を引き摺っていたと報じている[1]。その後、右前脚に深刻な負傷を負っていることが判明した[13]。
ジョン・ランドールとトニー・モリスは著書"A Century of Champions"の中で、マンナを平均的なダービー勝ち馬であり、20世紀のイギリスの競走馬の中で115番目に優れた馬であると評価した[15]。
種牡馬時代
種牡馬入りに際しては馬主の意向でシンジケートが組まれ、当時の報道によれば種付け料は400ギニーであった[16]。ニューマーケット近郊のチェヴァリーにあるバンステッドマナースタッドで供用され、種牡馬として一定以上の成功を収めた。
代表産駒としては2000ギニーステークス勝ち馬のコロンボや無敗馬のマンナミードが挙げられる。その他の産駒としては、1932年の有力な2歳馬の一頭で、後にオーストラリアで種牡馬として成功したマニトバが挙げられる。
1939年10月に血管破裂により死亡し、バンステッドマナースタッドに埋葬された。同スタッドの厩務員用コテージは現在でも「マンナ・コテージ」として知られている[17]。
血統表
| 父系 | ファラリス系 [§ 2] | |||
|---|---|---|---|---|
父 Phalaris1913 黒鹿毛 |
父の父 Polymelus1902 鹿毛 |
Cyllene | Bona Vista | |
| Arcadia | ||||
| Maid Marian | Hampton | |||
| Quiver | ||||
父の母 Bromus1905 鹿毛 |
Sainfoin | Springfield | ||
| Sanda | ||||
| Cheery | St. Simon | |||
| Sunrise | ||||
母 Waffles1917 鹿毛 |
Buckwheat 1906 鹿毛 |
Martagon | Bend Or | |
| Tiger Lily | ||||
| Sesame | St. Simon | |||
| Maize | ||||
母の母 Lady Mischief1903 黒鹿毛 |
St. Simon | Galopin | ||
| St Angela | ||||
| Vain Duchess | Isinglass | |||
| Sweet Duchess | ||||
| 母系 (F-No.) | (FN: 22-d) [§ 3] | |||
| 5代内の近親交配 | St. Simon 4×4・3、Hampton 4×5、Bend Or 5×4、Isonomy 5×5、Springfield 4・5(父内) [§ 4] | |||
| 出典 | ||||