マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件
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| マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件 | |
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事件現場(2012年) | |
| 場所 |
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| 日付 | 1968年4月4日 |
| 攻撃手段 | 狙撃 |
| 攻撃側人数 | 1人 |
| 死亡者 | 1人(キング牧師) |
| 容疑者 | ジェームズ・アール・レイ |
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件(英:Martin Luther King Jr. Assassination)は、1968年4月4日にテネシー州メンフィス のホテル、ロレーヌ・モーテルに宿泊していたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア通称(キング牧師)がジェームズ・アール・レイに狙撃され暗殺された事件である。
暗殺

4月4日、キングの弟がキングの宿泊先のホテルに到着しキングと会った。4月8日に抗議デモを実施するためキングは弟と身だしなみを整えていた。午後5時50分頃にキングは弟と少しの警護官とともに夕食のため部屋(306号室)をチェックインして306号室を出た。バルコニーでキングは立ち止まり友人のジェシー・ジャクソンと冗談を言い合っていた。その瞬間1発の銃弾が発射された。弾丸は下顎を貫通し、右肩に命中した。命中したときの衝撃でキングがつけていたネクタイはちぎれた。そしてキングは後ろから倒れた。同じくその場にいた側近であったアンドリュー・ヤングはまだキングに微かな脈があることに気づき応急処置を試みたが意識はすぐに止まった。

銃撃からの数分後キングは救急車で警察官に護衛されながら病院に搬送された。夕方の6時頃に到着したがそのときキングは意識不明の重体となっていた。蘇生処置を何度も試みたが意識の回復は程遠かった。[3]午後7時5分、キングは息を引き取った。[4][5]
反応
キングの暗殺は国内の黒人に大きな衝撃を与えた。選挙活動中のロバート・ケネディは演説会場のインディアナポリスに到着した瞬間にキングの訃報を耳にした。演説は通常時刻で行われたが群衆の多くはキングの状態を心配していたがケネディは「残念なお知らせがあります」と冒頭に伝えキングの訃報を伝えた。その瞬間多くの人々が泣き叫ぶ声が響き渡った。[6]キング牧師と関係の良かったケネディはその後の予定をすべてキャンセルし引きこもった。リンドン・ジョンソン大統領はベトナム戦争の戦局の状況を知るためにハワイに向かおうとしていたが急遽キャンセルし、ラムゼイ・クラーク司法長官に全面捜査を行うよう指示を出した。そして国民に4月7日を国民追悼の日とした。キングの暗殺による州各地で暴動が発生した。

捜査はジョン・エドガー・フーヴァー長官を中心人物として徹底的に行われた。しかし捜査に関する書類の多くは機密文書となっている。1992年にジョン・F・ケネディ大統領暗殺記録収集法が議会で可決されたことに伴い一部議員らはキングの暗殺記録収集法もつくるべきと主張したが実現には至らなかった。4月17日に連邦捜査局は犯人は青い目をした30代後半の白人男性だとして似顔絵を公表した。4月19日には発見されたライフルの指紋分析が成功し、犯罪歴のある、ジェームズ・アール・レイと断定した[7]。

レイの事件当日の行動とその後
ジェームズ・アール・レイは3月後半からキングをマークしており、ライフルを購入後キングがメンフィス に来ることを確認し事件現場のホテルの周辺にあったホテルの部屋で双眼鏡を使用しキング牧師を確認し浴室で銃弾を発射したと連邦捜査局の調査で判明した。事件発生から2ヶ月後の6月、レイはベルギーに逃れようとしたところをイギリス警察が逮捕した。7月19日にアメリカ合衆国に引き渡され、1969年3月10日に容疑を認めた。裁判所はレイに懲役99年の判決を下したが1998年4月23日に病気により死亡した。しかしレイは数回もの昏睡状態になったり入退院を繰り返したことからウイルス感染説や殺害説などの陰謀説がとびでた。
