ミシェル・デル・ザカリアン
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FCナント監督時代(2015年) | ||||||
| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Michel Der Zakarian | |||||
| アルメニア文字 | Միքայել Տեր–Զաքարյան | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1963年2月18日(63歳) | |||||
| 出身地 |
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| 身長 | 180cm | |||||
| 体重 | kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| 利き足 | 左足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1969-1974 |
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| 1974-1979 |
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| 1979-1980 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1980-1988 |
| 141 | (1) | |||
| 1988-1997 |
| 233 | (15) | |||
| 通算 | 374 | (16) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1980-1981 |
| |||||
| 1996-1997 |
| 5 | (0) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1998-1999 |
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| 1999-2000 |
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| 2001-2006 |
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| 2006 |
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| 2006-2007 |
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| 2007-2008 |
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| 2009-2012 |
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| 2012-2016 |
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| 2016-2017 |
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| 2017-2021 |
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| 2021-2022 |
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| 2023- |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ミシェル・デル・ザカリアン(アルメニア語: Միքայել Տեր–Զաքարյան, ラテン文字転写: Michel Der Zakarian, 1963年2月18日 - )は、ソビエト連邦 (現アルメニア)・エレバン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元アルメニア代表。現役時代のポジションはディフェンダー。現在はリーグ・アン・モンペリエHSCの監督を務めている。
現役時代は、ディヴィジオン・アン (フランス1部)のFCナントでプロキャリアを開始し、主にセンターバックを務め、1983年にリーグ優勝を経験。その後、モンペリエHSCに所属した。代表では、育成年代でフランス代表、A代表で1996年からアルメニア代表としてプレーした。
指導者としては、モンペリエの下部組織でキャリアを開始し、ナント、クレルモン・フットを率いた後、2012-13シーズンから再びナントを指揮している。
クラブ
ナント
トルコ生まれでフランス育ちの父、ギリシャ生まれでアルメニア育ちの母の下、ソビエト連邦のエレバンに生まれるたデル・ザカリアンは、2歳の時に、父が育ったマルセイユに一家で移住[1]し、地元のヴィヴォー・マロニエ (Vivaux Maronniers)、マザルグAS (Mazargues AS)でサッカーを始める[2]。マザルグで1977年にリーグ・ドゥ・ラ・メディララネを獲得する活躍等から、1979年にはFCナントへ引きぬかれると、1980年にリザーブチームでセス・アドンコールとコンビを組んでディヴィジオン3優勝に貢献し、更に1981-82シーズンにはパトリス・リオが負傷した影響によってマキシム・ボシスとコンビを組み、トップチームで公式戦18試合に出場、翌1982-83シーズンはリーグ優勝を経験した。
リオの移籍、アドンコールの逝去によって、1984-85シーズンから定位置を確保し、翌1985-86シーズンはリーグ戦準優勝に貢献。また、同シーズンのUEFAカップ1985-86では準々決勝まで進出しており、FCインテルナツィオナーレ・ミラノとの準決勝2ndレグで得点を挙げたが、退場し、チームは敗退した[3]。ナントで9シーズンに渡ってプレーした後、1988年にモンペリエHSCへ移籍した。
モンペリエ
モンペリエHSCでは、移籍1季目の1988-89シーズンにすぐさま定位置を確保し、ジュリオ・セザールとコンビを組んでいた[4]が、1989-90シーズンにはローラン・ブランの存在から控えにまわることが多くなり[4]、優勝を果たしたクープ・ドゥ・フランスの決勝戦は未出場だった。翌1990-91シーズンは、移籍したジュリオ・セザルの後釜争いをジャン=マヌエル・テティスと繰り広げながら、リーグ戦20試合、UEFAカップウィナーズカップ 1990-91に3試合出場。オールド・トラッフォードで行われた準決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦において、膝の靭帯を損傷したにもかかわらず、交代を拒否した。
ブラン移籍後は主将を引き継ぎ、アンジェSCOを3-1で降してクープ・ドゥ・ラ・リーグ優勝に貢献。1994年には、クープ・ドゥ・フランスとクープ・ドゥ・ラ・リーグの2つのカップ戦において決勝戦に到達したが、AJオセール、RCランスに阻まれ準優勝に終わった。翌1994-95シーズンはリーグ戦で17位と低迷した。1995-96シーズンはリーグ戦6位と復調したが、クープ・ドゥ・フランス準決勝において、当時ナショナル (3部)所属のニーム・オリンピック相手に敗退した。1996-97シーズンは、相次ぐ負傷によって3試合の出場に制限され、シーズン中に現役引退した。
代表
幼少期にフランスへ移住し、市民権を得ていた[1]ことで育成年代はフランス代表としてプレー[5]し、1980年と1981年の2年連続でUEFA U-18欧州選手権に出場しており、後者ではスペインをPK戦の末に降して3位となった[6]。
A代表としては、1996年から1997年の間に自身のルーツであるアルメニア代表でプレー[1]し、1996年8月に1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のポルトガル戦で初出場を飾り[5]、以来5試合に出場した。
指導者経歴
現役引退後は、まず、モンペリエHSCでテクニカル・スタッフとなり、その後に同クラブのCチームの監督に就任し、翌年にはフランスアマチュア選手権 (4部)に所属するBチームを担当した[7]。2000年にはトップチームのアシスタントを務め、2001年から2006年まで再びBチームを率いた。
ナント
2006年7月にFCナントのBチームの監督として古巣に復帰すると、10月にはセルジュ・ル・ディゼ監督からジェルジュ・イオ監督に交代した際、トップチームのアシスタントに就任[8]し、2007年2月12日からは、スポーツ・ディレクターを務めるヤフェット・エンドラムと共同監督となった[9]。チームはリーグ・ドゥへ降格したにもかかわらず、クラブ首脳陣の評価は悪くなかった為に続投となったが、オーナー交代に伴って自身の進退に暗雲が垂れ込めており[10]、最終的にリーグ2位でリーグ・アンへ復帰し、2008-09シーズンも続投する中、2008年8月26日に解任となった[11]。
クレルモン・フット
2009年6月1日にディディエ・オッレ=ニコル監督の後釜として、リーグ・ドゥのクレルモン・フットの監督に就任する[12]。クレルモン・フットを率いた3季の間では、2009-10シーズン及び2011-12シーズンに昇格まで迫っていたが、前者では最終日にACアルル=アヴィニョンに敗北して6位でシーズンを終え、後者では勝ち点58の5位に終わった。なお、2011-12シーズンはトロフェ・UNFP・デュ・フットボールの最優秀監督賞にノミネートされ[13]、フランス・フットボール誌の方では受賞した[14]。
ナント復帰
2012年6月1日にランドリー・ショーヴァン監督の後釜として、ナントに復帰[15]。就任1季目に3位での昇格へ導き、再び最優秀監督に選出される[16] (トロフェ・UNFP・デュ・フットボールはノミネート[17])手腕でリーグ・アン昇格に導くと、昇格1季目の2013-14シーズンは13位で終了した。
個人成績
クラブでの成績
| 所属クラブ | シーズン | リーグ | カップ | 欧州カップ | 合計 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 所属リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
| ナント | 1981-82 | ディヴィジオン・アン | 15 | 0 | 1 | 0 | 2[a] | 0 | 18 | 0 |
| 1982-83 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | 2 | 0 | |||
| 1983-84 | 3 | 0 | 2 | 0 | - | 5 | 0 | |||
| 1984-85 | 34 | 0 | 7 | 0 | - | 41 | 0 | |||
| 1985-86 | 36 | 0 | 1 | 0 | 8[b] | 1 | 45 | 0 | ||
| 1986-87 | 31 | 0 | 0 | 0 | - | 31 | 0 | |||
| 1987-88 | 21 | 1 | 3 | 0 | - | 24 | 1 | |||
| 合計 | 141 | 1 | 15 | 0 | 10 | 1 | 166 | 2 | ||
| モンペリエ | 1988-89 | ディヴィジオン・アン | 32 | 0 | 2 | 0 | - | 34 | 0 | |
| 1989-90 | 24 | 0 | 2 | 0 | - | 26 | 0 | |||
| 1990-91 | 20 | 0 | 0 | 0 | 3[c] | 0 | 23 | 0 | ||
| 1991-92 | 32 | 2 | 2 | 0 | - | 34 | 2 | |||
| 1992-93 | 32 | 2 | 4 | 1 | - | 36 | 3 | |||
| 1993-94 | 31 | 3 | 5 | 0 | - | 36 | 3 | |||
| 1994-95 | 33 | 3 | 7 | 0 | - | 40 | 3 | |||
| 1995-96 | 26 | 5 | 5 | 0 | - | 31 | 5 | |||
| 1996-97 | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||||
| 合計 | 233 | 15 | 27 | 1 | 3 | 0 | 263 | 16 | ||
| キャリア通算成績 | 374 | 16 | 42 | 1 | 13 | 1 | 429 | 18 | ||
代表での成績
出典:[20]
| アルメニア代表 | ||
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1996 | 2 | 0 |
| 1997 | 3 | 0 |
| Total | 5 | 0 |
監督成績
- 2023年2月8日現在
出典:[18]
| クラブ | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 | ||||
| ナント B | 2006年6月30日 | 2006年9月20日 | 7 | 1 | 3 | 3 | 14.29 | |
| ナント | 2007年2月12日 | 2008年8月26日 | 63 | 26 | 21 | 16 | 41.27 | |
| クレルモン | 2009年7月1日 | 2012年5月30日 | 130 | 50 | 41 | 39 | 38.46 | |
| ナント | 2012年5月31日 | 2016年5月15日 | 173 | 67 | 47 | 59 | 38.73 | |
| ランス | 2016年5月23日 | 2017年5月23日 | 42 | 16 | 13 | 13 | 38.10 | |
| モンペリエ | 2017年5月23日 | 2021年6月30日 | 161 | 62 | 54 | 45 | 38.51 | |
| ブレスト | 2021年7月1日 | 2022年10月11日 | 51 | 15 | 13 | 23 | 29.41 | |
| モンペリエ | 2023年2月8日 | 現在 | 0 | 0 | 0 | 0 | — | |
| Total | 627 | 237 | 192 | 198 | 37.80 | |||