サッカーフランス代表

フランスの男子サッカーナショナルチーム From Wikipedia, the free encyclopedia

サッカーフランス代表(サッカーフランスだいひょう、フランス語:Équipe de France de football)は、フランスサッカー連盟(FFF)によって編成されるフランスサッカーナショナルチーム。愛称はレ・ブルー(Les bleus - 「青」の複数形)、ル・コック(Le coq - 「雄鶏」の意)[1]

国または地域 フランスの旗 フランス
愛称 Les Bleus
概要 サッカーフランス代表, 国または地域 ...
サッカーフランス代表
国または地域 フランスの旗 フランス
協会 フランスサッカー連盟
FIFAコード FRA
愛称 Les Bleus
監督 フランスの旗 ディディエ・デシャン
キャプテン キリアン・エンバペ
最多出場選手 ウーゴ・ロリス(145試合)
最多得点選手 キリアン・エムバペ(58得点)
ホームスタジアム スタッド・ド・フランス
ホームカラー
アウェイカラー
初の国際試合
 ベルギー 3 - 3 フランス 
イクル, 1904年5月1日)
最大差勝利試合
 フランス 14 - 0 ジブラルタル 
ニース, 2023年11月18日)
最大差敗戦試合
 デンマーク 17 - 1 フランス 
ロンドン, 1908年10月22日)
FIFAワールドカップ
出場回数 16回(初出場は1930
最高成績 優勝(1998年2018年
UEFA欧州選手権
出場回数 11回
最高成績 優勝(1984年2000年
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概要

FIFAワールドカップ優勝経験のある8チームのうちの1つであり、UEFA欧州選手権ではスペインの4回、ドイツの3回に次いで、イタリアと並んで2回の優勝を経験している。FIFAランキングで首位に立った経験を持つ8チームのうちの1つでもある。かつてはイタリアがライバルと目されており、1998W杯EURO20002006W杯での対戦が著名[注釈 1]イングランドともライバル意識が強く、EURO20042022W杯等で対戦している。また、ブラジルアルゼンチンともW杯で幾度も名勝負を繰り広げている。

歴史

初期

初めての国際試合は、1904年5月1日にベルギーブリュッセルで開催されたベルギーとの試合で、3-3の引き分けであった。ベルギーとは1917年の第一次世界大戦の終戦以降、その同盟を記念して長らく定期戦が実施されていた関係の深い間柄である。同月に創設されたFIFAの初代会長はフランス人のロベール・ゲランである。

FIFAワールドカップへは、生みの親とも言える功労者ジュール・リメが当時FIFA会長だったこともあってヨーロッパのナショナルチームとしては珍しく第1回大会から出場している。記念すべきワールドカップ初ゴールを決めたのもリュシアン・ローランであった。

最初に世界に名を轟かせたのは1958年スウェーデン大会である。アルベール・バトー率いるチームには「ナポレオン」の異名を取ったレイモン・コパが居り、彼のパスを受けたFWジュスト・フォンテーヌはゴールを量産し、大会中2度のハットトリックを含む13得点という記録を残して大会得点王に輝いた。このフォンテーヌの記録は後に西ドイツゲルト・ミュラーブラジルロナウドドイツミロスラフ・クローゼによって破られるが、彼らの記録は2~3大会分を通算しての得点数であるため、1大会で達成した記録としては現在でも誰にも破られていない。準決勝でブラジルに敗れたものの、西ドイツを破って3位に入る健闘を見せた。

プラティニの時代

レイモン・コパに続いて「将軍」「ナポレオン」と呼ばれたミシェル・プラティニを中心にして、1978-1986年までワールドカップに3回連続して出場した時期が第2の黄金期である。アラン・ジレスジャン・ティガナベルナール・ジャンジニルイス・フェルナンデスらと組んだ中盤がシャンパンの泡が弾けるように軽やかにパスを繋げる流麗なサッカーは、シャンパン・フットボールと呼ばれて賞賛された。

1984年自国開催の欧州選手権にて初めての国際タイトルを獲得した。この大会ではプラティニが得点王になるほどの大活躍を見せ、選手としての全盛期であった(1998年大会でのユニフォームはこの年のデザインを踏襲したものである)。しかしワールドカップでは1982年スペイン大会1986年メキシコ大会と共に準決勝で西ドイツに敗れた。

1982年の西ドイツ戦は1-1のまま延長へ突入し、前半マリユス・トレゾール、アラン・ジレスのゴールによる2点のリードで勝負あったかに見えたが、延長前半終了間際にカール=ハインツ・ルンメニゲの、延長後半にクラウス・フィッシャーのゴールで3-3の同点に追いつかれ、ワールドカップ史上初となるPK戦の末に敗れた。更に延長後半にパトリック・バチストンハラルト・シューマッハーとの激突事故で重傷を負ったことも悲劇性を高めた。しかし、この1982年の準決勝・西ドイツ戦は1986年の準々決勝・ブラジル戦と並んでワールドカップ史上に残る試合として評価され、名勝負の具体例に挙げられることも多い。

暗黒時代

プラティニ、ジレスらが代表を退いた後は、ルイス・フェルナンデス、若手のジャン・ピエール・パパンらが中心となっていたが、ワールドカップ出場も2回連続で逃した。1990年イタリア大会のヨーロッパ地区予選ではホームゲームに3勝1分けと無敗ながらもアウェイでユーゴスラビアスコットランドに敗れた上に格下のノルウェーキプロスと引き分けてしまうなど2敗2分けに終り1勝も出来なかったのが響いて敗退。特に全8試合でキプロスにとっての唯一の勝点を献上しており、結果的にはそこで勝利していれば出場権を獲得していた。

EURO1992はパパン、エリック・カントナローラン・ブランらを擁して2大会ぶりに本大会に出場し、優勝候補との呼び声も高かったが、この大会で優勝することになるデンマークに敗れグループステージ敗退。1994年アメリカ大会のヨーロッパ地区予選でも前評判は高かったが、勝てば突破確定となるホームのイスラエル戦で敗北、続く引き分け以上で突破となる最終戦、パルク・デ・プランスでのブルガリア戦に終了間際の得点で敗れ、土壇場で出場権を逃した。この試合は日本ではパリの悲劇と呼ばれている。そして、紆余曲折を経たフランスは新しい時代を迎えることとなる。

ジダンの登場

1998年のワールドカップに出場したチームからは、見た目で分かる変化を遂げている。それまでのフランス代表は白人主体のチーム構成であったが、アフリカや、カリブ海などのフランスの国外、若しくは旧植民地からの移民、若しくはその子孫の選手が増えたのである。故に、日本人の多くが持っていた白人国家としてのフランスの印象を、サッカー中継を通じて一変させた。

地元開催の前回大会となる1994年アメリカ大会の出場を逃すと、フランスは辞任したジェラール・ウリエのアシスタントだったエメ・ジャケを代表監督の座に据えた。ジャケはそれまでの伝統的な白人主体のチーム構成に、アフリカやカリブからの移民、その子孫を入れ始めた。その象徴が、ジャケ率いるフランス代表の中心選手となったアルジェリアベルベル人の子ジネディーヌ・ジダンである。

フランス代表にはそれ以前に移民やその子孫が存在していなかったわけではなかった。レイモン・コパはポーランド系移民で、プラティニもイタリア系の移民であった。マリユス・トレゾールバシール・ボリなど黒人選手もいた。しかしこの目に見えるフランス代表の変質はフランスの国粋主義者によって罵倒されることになった。この代表格である極右政党国民戦線のリーダージャン=マリー・ル・ペンは「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と発言して物議を醸した。またジャケのもとには彼等を代表から外すようにとの脅迫が舞い込んだ。

ジャケはEURO1996でも露呈したFWの得点力不足や選手選考など、様々な批判を浴びながら自国開催の1998 FIFAワールドカップに臨んだ。しかしジダンやジョルカエフを中心とした豪華な中盤と、安定した守備を武器に順当に勝ち進んだ。グループステージを3連勝で突破し、ノックアウトステージ1回戦ではパラグアイの堅い守備に苦しみながらもローラン・ブランのゴールデンゴールで1-0で勝利。準々決勝で最大の敵イタリアとの死闘をPK戦の末に制すると、準決勝ではダークホースであったクロアチアをリリアン・テュラムの2ゴールで破った。そして1998年7月12日スタッド・ドゥ・フランスでの決勝はジダンのヘディングによる2ゴールと終了間際のエマニュエル・プティのゴールで前回王者ブラジルに3-0で勝利し、様々なルーツを持つ選手たちが集まったフランス代表は自国開催で優勝という責務を果たした。試合後シャンゼリゼ通りトリコロールで埋め尽くされ、凱旋門には国民の英雄となったジダンの顔が映し出されるなど熱狂の渦と化した。こうして様々な批判をかわしたフランスワールドカップ以降ジダンを初めとするフランス代表の移民の子孫たちは、フランス社会における移民の成功者、代弁者として扱われるようになった。2002年日韓大会直前のフランス大統領選挙でのル・ペンの躍進に際してジダンが政治的なメッセージを発したことにも関連する。

黄金期とその終焉

1998年ワールドカップの優勝後、ジャケのアシスタントのロジェ・ルメールが就任。UEFA欧州選手権2000の予選は苦戦の連続で、最終戦で引き分け以下なら本大会出場を逃していたが、敗退が確定していたアイスランドとのホームゲームを一時は2点リードを追いつかれながら71分の決勝ゴールで3-2で勝利し突破を果たした。ベルギーとオランダで行われた本大会に臨む前に日本とハッサン2世杯で戦いPK戦(延長戦は行わず)で辛くも勝利するなど、世界王者でありながら下馬評はそこまで高くなかった。しかしグループステージ初戦のデンマーク戦で圧倒的な強さをいきなり見せつけ、第2戦ではEURO1996準決勝でPK戦の末に敗れたチェコに雪辱を果たし第3戦を残して早くもグループステージ突破を決めた。準々決勝ではスペインと対戦し、2-1で勝利。準決勝のポルトガル戦では延長戦でアベル・シャビエルのハンドから得たPKをジダンが決めた。決勝は好敵手イタリア相手に苦しんだが、リードされ迎えた終了間際、シルヴァン・ヴィルトールのゴールで追いつき、延長戦でダビド・トレゼゲゴールデンゴールで劇的な勝利を飾り、プラティニを擁した1984年大会以来2度目の欧州王者に輝いた。この大会のチームは1998年と比べてティエリ・アンリを筆頭として攻撃陣が成長し、バランスのよいチームに仕上がっていた。またジダンは大会を通じて素晴らしいパフォーマンスを披露しMVPに輝いた。

この欧州選手権の優勝により、フランス代表は黄金期を迎えた。デシャンとブランという大黒柱は代表引退したが、翌2001年3月には日本をスタッド・ドゥ・フランスにて5-0で破った。2001-2002シーズンにアンリがプレミアリーグ、トレゼゲがセリエAジブリル・シセリーグ・アンで得点王に輝くなど98年大会よりも攻撃陣が充実しており、2002 FIFAワールドカップの優勝候補筆頭に挙げられていた。

しかし本大会直前の韓国との親善試合でジダンが負傷すると、ジダンを欠いた初戦でワールドカップ初出場のセネガル戦を0-1で落としてしまう。続くウルグアイ戦でアンリの退場で数的不利となってしまい、スコアレスドロー。グループステージ突破には2点差以上での勝利が必要条件となったデンマーク戦では、ジダンがテーピングを巻いて強行出場。しかしこの試合でも決定機を決められず、ジダンも精彩を欠き0-2で敗れ、1得点も挙げられないまま3戦2敗1分けでグループステージ敗退に終わった。前回優勝チームが1勝及び1得点も挙げられなかったのは史上初であり、1次ラウンド敗退も1966年のイングランド大会におけるブラジル以来であった。また優勝経験国が無得点に終わる初のチームであり、2024年現在でもこの事例が唯一である。要因として挙げられるのは極東の気候を考慮して本大会開幕がシーズン終了後間もない5月31日だったこと、選手の固定化、ジダン不在の影響が大きかったことなどがあげられる。さらにはグループステージ3試合すべてで、シュートがポストやクロスバーに当たる不運な場面があった。本国の国粋主義者達からも「それ見たことか。愛国心のない移民チームだからだ」と移民への攻撃再開の材料とされた。

ワールドカップ後、新監督にジャック・サンティニが就任した。UEFA欧州選手権2004予選では8戦全勝で突破を果たし、地元開催のFIFAコンフェデレーションズカップ2003で同大会の連覇を果たした。長らく無敗を維持し、再び優勝候補、前回王者としてUEFA欧州選手権2004ポルトガル大会に臨んだ。初戦のイングランドとのビッグマッチこそ、終了間際のジダンの奇跡的な2得点によって逆転勝ちしたが、クロアチア戦、スイス戦でも苦戦した。調子の上がらないまま準々決勝でこの大会で優勝したギリシャに0-1で敗れ、大番狂わせを演じられてしまった。

大会後ジダンら主力選手が代表引退を表明。新時代に突入すると思われたが、新監督レイモン・ドメネクの不可解な選手選考をはじめとした、一貫性のないチーム作りなどでチームは迷走。2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選突破を危ぶまれたが、ジダンやリリアン・テュラムクロード・マケレレといった選手が2005年夏に代表に復帰するとチームは息を吹き返し、本大会出場を決めた。ジダンが大会終了後の現役引退を表明して臨んだドイツワールドカップではグループステージでスイス、韓国に引き分けるなど苦戦したものの、ジダンを出場停止で欠いたトーゴ戦に2-0で勝利し、グループ2位で突破した。ノックアウトステージではジダンの華道を飾ろうとチームもまとまり、1回戦でスペインに3-1で逆転勝利。準々決勝の相手は優勝候補筆頭であるブラジルとなり、前回王者対前々回王者というこの時代を象徴するチーム同士の対戦であり、1998W杯決勝の再現となった。そしてジダンが全盛期を彷彿とさせるプレーを披露し1-0で勝利。準決勝でもジダンのPKで1-0でポルトガルに勝利した。決勝ではPK戦の末にイタリアに敗れたが、結果よりもジダンの退場が世界中の関心事になってしまった。しかし自身最後の大舞台において、大会MVPに選ばれるパフォーマンスでチームを決勝まで導いたことはフランス代表におけるジダンの影響力の大きさと依存度が示されたといえるだろう。黄金世代が最後の輝きを見せたドイツ大会だが、代表選手の平均年齢は30歳で大会最年長であった。大会最大の発見ともいわれたフランク・リベリーの活躍などの明るい材料もあったが、ジダンの抜ける後のチームをどうするかという問題の解決は大会後に委ねられることになった。

ドメネク体制下の混乱とブランの失敗

続投したドメネクは、再度の代表引退の可能性も表明していたテュラムとマケレレを引き続き招集した。UEFA EURO 2008予選では最初にグルジアに勝利、更に2006年ワールドカップ決勝でPK戦の末敗れたイタリアにも勝利し、幸先の良いスタートを切った。2007年10月17日にはアンリの2得点でリトアニアを撃破。この得点でアンリはミシェル・プラティニの持つ代表最多得点記録を更新した。しかし、スコットランドに敗れるなどし、フランスはこの予選B組をイタリアに続く2位で終了。本大会ではまたもイタリアと同組、さらにオランダルーマニアがいるという「死のグループ」に割振られた。フランスはバイエルン・ミュンヘンにおいてブンデスリーガMVPを受賞するなど中心選手に成長したリベリーを中心として、アンリ、テュラムやマケレレといったベテランとサミル・ナスリカリム・ベンゼマなど準レギュラーとして定着した期待の若手を織り交ぜたチームでスイス、オーストリアで行われる本大会に臨んだ。しかし、初戦のルーマニア戦を0-0で引き分けると、続くオランダ戦では1968年以降、公式戦における最悪のスコアとなる1-4で敗戦。3戦目のイタリア戦では早い時間帯でのアビダルの退場(PKを献上)、その直後のリベリーの左足首の負傷退場(全治2か月)などの不運も重なり、0-2で敗戦。結果グループリーグで大会を去った。テュラムとマケレレは改めて代表引退を表明した。レイモン・ドメネク監督は采配や偏った選手選考を激しく批判されたが、フランスサッカー協会は「クラブ・フランス2010[注釈 2]の監視下に置く」という条件付で監督続行を支持。

南アフリカワールドカップに向けた強化策として、かつてのワールドチャンピオンであったアラン・ボゴシアンをドメネクのスタッフに迎え入れた。2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選でフランスはルーマニア、セルビア、リトアニア、フェロー諸島、オーストリアで構成される第7グループに振り分けられた。ここではリベリーに加え、ヨアン・グルキュフウーゴ・ロリスらの若手を起用、ニコラ・アネルカも代表に定着した。個々の能力は世界屈指と言われながら、またも苦戦し何度もドメネクの解任騒動が飛び出た。結局はセルビアに続く2位で予選を終了。この結果、本戦出場に向けてプレーオフを戦わなければならなくなる。抽選の結果11月に行われるプレーオフではアイルランドと対戦し、アウェーでの第1戦は1-0で勝利するものの、ホームで行われた第2戦では大苦戦。先制点を決められ合計1-1で延長戦に突入した。その延長戦でアンリのアシストからギャラスが得点し本大会出場を決めたが、アンリのトラップが明らかなハンドであったことからアイルランド側が再試合を求めるなど、多くの物議を醸した。

2010年3月、本大会に向けホームのスタッド・ドゥ・フランスで行われたスペインとの親善試合では試合中に「ドメネク解任」コールや大ブーイングが起こるほどの醜態で完敗。監督の求心力低下に加え、リベリーやシドニー・ゴブーらの淫行疑惑、チーム内の人間関係悪化、一体感の無さなどが指摘され、プレー以前の問題を抱えたまま南アフリカ入りすることとなる。本大会グループリーグではA組の開催国の南アフリカ、メキシコ、ウルグアイと比較的恵まれた割り振りとされていたにもかかわらず、精彩を欠いた内容で初戦のウルグアイ戦を0-0で引き分けるとメキシコに0-2で完敗。また、この試合のハーフタイム中に怒りが頂点に達したアネルカが監督に暴言を吐いたとして強制帰国を命じられ、代表を追放される。その後アネルカは代表を引退した。これに反発した選手達がサッカー連盟への抗議として練習をボイコットする前代未聞の事件が起こってしまう。練習を求めるフィットネスコーチと主将のエヴラが大喧嘩、ドメネクが間に入って止めようとするもコーチは「誰のせいでこうなったんだ!」と激昂してグラウンドを立ち去り、チームディレクターが責任を取る形で辞任。騒動の収拾の為、ニコラ・サルコジ大統領が介入する事態にまで発展するスキャンダルとなった。チームは崩壊状態となりグループリーグ最終戦の南アフリカにも敗れ、2敗1分で勝点・得点共に1に終わり、グループリーグ最下位で敗退。ドメネクは特に2008年以降常に厳しい批判を浴びせられ、観客動員数が減るなど史上最も国民に嫌われた代表監督であった。ついにはワールドカップでチームを空中分解させ、フランス代表の権威は失墜してしまった。大会後、ティエリ・アンリが代表引退を発表した[2]

南アフリカW杯前、すでにフランスサッカー連盟(FFF)はローラン・ブランを後任として招聘することを発表していた。まずブランは南アフリカ大会に選出された代表選手23名を初めのうちはメンバー入りさせない事を発表した。新生フランス代表は2010年8月11日にノルウェーとの親善試合で再出発するが、この試合は1-2で敗れた。同年9月にはUEFA EURO 2012予選に突入。最終的にはベラルーシ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルーマニア、ルクセンブルク、アルバニアとの予選を1位通過した。親善試合を含め21戦無敗でポーランドとウクライナで行われたUEFA EURO 2012に臨んだ。初戦でイングランドに引き分け、開催国ウクライナに勝利し、記録を23戦無敗とした。しかし第3戦ですでに敗退が決まっていたスウェーデンに敗れ、一部選手と監督との口論が問題になった。辛うじて準々決勝に進出したがスペインに完敗し、ワールドカップ、EUROを通して公式大会で初めてスペインに敗れた。イングランド戦後にはナスリが記者に暴言を吐くなどの問題もあり、後味の悪い大会となってしまった。ブラン監督は大会後に退任し、後任にはフランス代表黄金期のキャプテンであり、オリンピック・マルセイユの監督を退任したばかりのディディエ・デシャンが就任した。

デシャン長期政権

2018 FIFAワールドカップ・決勝のスタメン

初陣となった2012年8月のウルグアイとの親善試合はスコアレスドローで終えた。9月の2014FIFAワールドカップ欧州予選でフィンランド、ベラルーシを下し2連勝。最初の正念場となった10月アウェーでの世界王者スペイン戦は、終了間際のオリヴィエ・ジルーのゴールでなんとか引き分けに持ち込んだ。

2013年に入り、デシャンは3月のグルジア、スペインとの2連戦に向けて若手のポール・ポグバラファエル・ヴァランを招集。2人をスタメンに抜擢した2試合でグルジアには勝利したものの、スタッド・ドゥ・フランスで行われたスペインとの天王山に0-1で敗北。その後もウルグアイ、ブラジル、ベルギーとの親善試合、アウェーでのグルジアとのW杯予選で5試合連続無得点となるなどチームは下降線を辿っていった。その後ベラルーシとフィンランドには勝利したが結局2大会連続でプレーオフに回った。プレーオフではウクライナと対戦することになったが敵地での第1戦に2-0で敗北。過去第1戦で完封負けを喫したチームが逆転した例がないことやあまりに低調な内容から、フランスのメディアや国民は悲観的な見方が多かった。しかし11月19日(日本時間20日早朝)に行われた第2戦ではスタッド・ドゥ・フランスに詰めかけた大観衆の後押しを受け、試合序盤から積極的な試合運びを見せた。そして前半のうちにサコーベンゼマのゴールでトータルスコアをタイに戻すことに成功した。後半27分にもフランク・リベリーのシュート性のクロスからサコーが3点目を決め、フランスが2戦合計3-2の逆転劇で2014 FIFAワールドカップ出場権を獲得した。

2014年に入ってもプレーオフの勢いを維持し、3月の親善試合ではアントワーヌ・グリーズマンが初招集され、オランダを破った。しかしワールドカップ本大会直前に中心選手リベリーが腰痛によって戦線離脱してしまう。それでも初戦のホンジュラス戦ではベンゼマの2ゴールとオウンゴールによって3-0で勝利。難敵スイスも5-2で破るなど、2勝1分でグループリーグを突破。決勝トーナメント1回戦ではナイジェリアを下し、準々決勝はドイツとの対戦になったが、これは1986年メキシコ大会以来の国際大会での対戦であった。トニ・クロースのFKを合わせたマッツ・フンメルスのゴールによって0-1で敗れ、1982年と1986年の雪辱を果たすことはできなかった。

1960年大会1984年大会に次いで3度目のフランスでの自国開催となったUEFA EURO 2016に向けて開催国の特権として予選は免除されたが、2014年9月から2015年10月にかけ、予選開催日には奇数の5チームだったグループIで試合のないチームと親善試合を行っていた。また、エースであったベンゼマとデシャン政権発足以来の攻撃の中心選手であったマテュー・ヴァルブエナが、2015年にスキャンダルで代表を外れることになり、アトレティコ・マドリードのエースへ成長し、2015‐2016シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ準優勝を果たしたグリーズマンが新たな攻撃の核として期待された。

EURO2016本大会直前に、守備の要ラファエル・ヴァランを怪我で欠くことになり守備面で不安を抱えたが、2016年6月10日スタッド・ド・フランスでの開幕戦では、ルーマニアディミトリ・パイェの終了間際のミドルシュートで2-1で勝利した。次のアルバニア戦でも終了間際のゴールで2-0と勝利し、第3戦を残してベスト16進出を決めた。第3戦のスイス戦は0-0の引き分けで、グループリーグは2勝1分けの勝点7、首位で通過した。ラウンドオブ16ではアイルランドに2-1、準々決勝ではアイスランドに5-2、準決勝ではドイツに2-0で勝利しワールドカップの雪辱を果たして2000年大会以来3度目、自国開催としては1984年大会以来の2度目の優勝へと勝ち進んでいった。だが決勝では決定機を決められないまま延長戦までもつれこみポルトガルに先制され0-1で敗れ、準優勝に終わった。アントワーヌ・グリーズマンが6得点で大会得点王となった。

2018 FIFAワールドカップの予選ではスウェーデンオランダと同じ組に入り、オランダに対する4-0の大勝を含む、7勝2分け1敗の首位で出場権を獲得。この間に、キリアン・エンバぺウスマン・デンベレという期待の若手が代表デビューした。史上初の東欧開催となるロシアでの本大会では、オーストラリアペルーデンマークと同じ組となった。初戦のカザンでのオーストラリア戦では、堅い守備ブロックを敷く相手に苦しみながらも、2-1で競り勝った。続くペルー戦にも1-0で勝利。ペルー戦で決勝ゴールを決めたキリアン・エンバペはW杯でのフランス代表最年少ゴール記録を塗り替えた(19歳183日)。最終戦のデンマークとはロシア大会64試合中唯一となるスコアレスドローに終わるも、2勝1分けの首位でグループリーグを突破。決勝トーナメント1回戦では、再びカザンで、メッシ率いるアルゼンチンと戦うことになった。この試合は、エンバぺの独走ドリブルでのPK奪取や、ディ・マリアパヴァールのスーパーゴールが飛び交うなどの名勝負となり、最終的に4-3でシーソーゲームを制した。準々決勝ではウルグアイに2-0で快勝して南米勢に連勝。サンクトペテルブルクでの準決勝は、ブラジルを倒したベルギーとのハイレベルな攻防となったが、グリーズマンのコーナーキックに頭で合わせたサミュエル・ウンティティのゴールで1-0で競り勝った。12年ぶり3度目となる決勝では、20年前の自国開催大会の準決勝で戦ったクロアチアモスクワで対戦。その際の英雄であるリリアン・テュラムも見守る中、4-2で勝利し、20年ぶり2度目のワールドカップ優勝を成し遂げた。この試合の4点目を決めたエンバペは、決勝ではブラジルペレ以来60年ぶり2人目となる10代選手の得点者となった。エンバペは大会ヤングプレーヤー賞を受賞。デシャンはワールドカップではブラジルのマリオ・ザガロドイツフランツ・ベッケンバウアーに次ぐ史上3人目となる、選手と監督の両方で優勝を成し遂げた[3]

こうして、新たな黄金期を迎えたフランスだが、新型コロナウイルスの影響によりUEFA EURO 2020が1年延期され、2021年に開催されることになった。本大会ではグループリーグFに入り、メンバーには2015年以来事実上の代表追放状態となっていたレアル・マドリードのエース、カリム・ベンゼマがサプライズ復帰した[4]。第1戦のドイツ戦ではオウンゴールで勝利するものの、第2戦のハンガリー戦、2016年大会の決勝の再現となった第3戦のポルトガル戦では、共に引き分けてしまった。しかし1勝2分の勝ち点5で死の組を1位通過となった。ラウンドオブ16のスイス戦は、何度も苦戦してきた難敵相手に先制されるも、逆転し一時2点をリードする。しかし、DF陣の混乱から同点に追いつかれてしまう。延長戦でも決着がつかず、PK戦ではエンバぺのシュートがヤン・ゾマーにセーブされたことで勝負がつき、ジダン時代に次ぐW杯EUROのダブル制覇は成し遂げられなかった[5]

デシャンはFFF会長の支持の下続投し、2022 FIFAワールドカップの大会連覇を目指すこととなった。2020-2021UEFAネーションズリーグでは優勝を果たしたが、翌シーズンのネーションズリーグでは散々な結果に終わり、選手層の割に単調な試合内容が多いことから、デシャンやチームに対しての懐疑的な声も出てくるようになった。本大会では、負傷でメンバーから外れたエンゴロ・カンテポール・ポグバに加えて、大会直前にカリム・ベンゼマクリストファー・エンクンクも相次いで離脱することになり複数の主力選手を怪我で欠く状態で挑むこととなった。なお、追加招集でマルクス・テュラムが招集され、ジョルカエフ親子に次ぐ、フランス代表としての親子でのW杯出場となった。グループステージではオーストラリアデンマークチュニジアと同じグループDに組み分けされ、4カ国のうち3カ国が前回大会と同じ顔ぶれになった。初戦のオーストラリア戦では9分にクレイグ・グッドウィンのゴールで先制点こそ奪われたものの、前半のうちに逆転し、最終的に4-1で逆転勝利をした[6]。続くデンマーク戦ではキリアン・エンバペが2得点を挙げ、この大会におけるグループステージを突破した最初のチームとなった[7]。主力選手を温存して挑んだ最終節チュニジア戦では開始から相手の積極的なプレッシャーに苦しみ、相手に何度もチャンスを作られ続けると57分にワフビ・ハズリに先制点を奪われる。それ以降は温存していた主力を次々とピッチに投入していき終了間際にはアントワーヌ・グリーズマンがネットを揺らすも、オフサイドの判定。結局最後まで追いつけないまま0-1で敗れたものの、グループステージを首位で突破した[8]

決勝トーナメント1回戦では36年ぶりのラウンド16進出を果たしたポーランドと対戦。オリヴィエ・ジルーがフランス代表歴代最多得点記録(52得点)を更新するゴールを挙げ[9]、さらにエンバペもW杯通算9得点目を挙げ、24歳以下の選手としてはペレの8得点を更新する最多得点選手となり[10]3-1で快勝した[11]。準々決勝の相手はライバルイングランドとなり、チュアメニのミドルで先制。その後2度のPKを与えてしまう等試合の主導権を握られたが、ポグバやカンテの代わりに中盤で躍動するグリーズマンのクロスを頭で合わせたジルーのゴールで2-1で競り勝った[12]。準決勝ではアフリカ勢として初のベスト4進出を果たす躍進を果たしたモロッコと対戦。テオ・エルナンデスの先制点後、モロッコに決定機を許さず2-0で勝利して2大会連続での決勝進出を決めた[13]ルサイル・アイコニック・スタジアムでの決勝は、前回ロシア大会で名勝負を繰り広げ、この大会が最後のW杯と公言していたリオネル・メッシ擁するアルゼンチンと対戦。前半にメッシのPKなどで2点のビハインドを負い、後半に入っても全く反撃できなかったが、エンバペが土壇場で2ゴールを決めて試合は延長戦に突入。その延長戦では108分にメッシに3点目となるゴールを決められるも、10分後にエンバペが自身のミドルシュートから相手のハンドを誘いPKを獲得。これを自ら決めて3-3の同点とした。エンバペはジェフ・ハースト以来史上2人目となるW杯決勝でハットトリックを達成した。その後、コロ・ムアニに訪れた決定機は相手キーパーのビッグセーブに遭い、優勝を賭けた最終決戦は3-3のままPK戦に突入。4人全員が成功させたアルゼンチンに対して、フランスは2人目のキングスレイ・コマン、3人目のオーレリアン・チュアメニがPKを失敗。最後はアルゼンチンの4人目ゴンサロ・モンティエルに決められたところで、史上3ヶ国目となるW杯連覇はならなかった[14][15]

英雄ジダンの代表監督を望む声は国内外から多く聞かれたが、デシャンはさらに2026FIFAワールドカップまでの契約延長を勝ち取った。しかし、デシャンと蜜月の関係と見做されていたFFF会長のノエル・ル・グラエはラジオ番組でのジダンに対する失言等により、会長を辞任することとなった[16]

UEFA EURO 2024では、再び優勝候補として臨んだが、初戦のオーストリア戦では前半38分のオウンゴールで辛くも1-0で勝利。第2戦のオランダ戦はスコアレスでドロー、第3戦のポーランド戦は56分にキリアン・エンバペのPKで先制するも、79分にPKから同点に追いつかれて2試合連続で引き分ける等低調な内容が目立った。それでも裏の試合でオーストリアがオランダを下したため、グループ2位通過が確定した。決勝トーナメントでも1回戦でベルギーに85分にオウンゴールから先制点を奪って勝利、続く準々決勝でポルトガルに0-0からのPK戦を制して準決勝に進出するという豪華な攻撃陣を活かしきれない戦いが続いた。そして準決勝スペイン戦では前半9分にエンバぺのクロスからランダル・コロ・ムアニが先制点を決めるも、前半のうちに17歳ラミン・ヤマルのスーパーゴール等で逆転を許す。そのまま後半はほとんど決定機を作れず1-2で敗れた。結局今大会で挙げた得点はわずか「4」(そのうち2点はオウンゴール)と大会史上ワースト記録を更新した[17]。大会後のUEFAネーションズイタリア戦を最後に、デシャン時代の象徴存在であったグリーズマンが代表引退を表明した。

成績

FIFAワールドカップ

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開催国 / 年 成績
ウルグアイの旗 1930年グループステージ敗退310243
イタリア王国の旗 1934年1回戦敗退100123
フランスの旗 1938年ベスト8210144
ブラジルの旗 1950年地区予選敗退
スイスの旗 1954年グループステージ敗退210133
スウェーデンの旗 1958年3位64022315
チリの旗 1962年地区予選敗退
イングランドの旗 1966年グループステージ敗退301225
メキシコの旗 1970年地区予選敗退
西ドイツの旗 1974年
アルゼンチンの旗 1978年グループステージ敗退310255
スペインの旗 1982年4位73221612
メキシコの旗 1986年3位7421126
イタリアの旗 1990年地区予選敗退
アメリカ合衆国の旗 1994年
フランスの旗 1998年優勝7610152
日本の旗大韓民国の旗 2002年グループステージ敗退301203
ドイツの旗 2006年準優勝743093
南アフリカ共和国の旗 2010年グループステージ敗退301214
ブラジルの旗 2014年ベスト85311103
ロシアの旗 2018年優勝7610146
カタールの旗 2022年準優勝7511168
合計出場16回/優勝2回7339142013685
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UEFA欧州選手権

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開催国 / 年 成績
フランスの旗 1960年4位200247
スペインの旗 1964年予選敗退
イタリアの旗 1968年
ベルギーの旗 1972年
ユーゴスラビアの旗 1976年
イタリアの旗 1980年
フランスの旗 1984年優勝5500144
西ドイツの旗 1988年予選敗退
スウェーデンの旗 1992年グループステージ敗退302123
イングランドの旗 1996年ベスト4523052
ベルギーの旗オランダの旗 2000年優勝6501137
ポルトガルの旗 2004年ベスト8421175
オーストリアの旗スイスの旗 2008年グループステージ敗退301216
ポーランドの旗ウクライナの旗 2012年ベスト8411235
フランスの旗 2016年準優勝7511135
欧州連合の旗 2021年 ベスト16 4 1 3 0 7 6
ドイツの旗 2024年ベスト4623143
合計出場11回/優勝2回492315117353
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FIFAコンフェデレーションズカップ

オリンピック

歴代監督

2026年3月29日時点(試合数、勝敗数)

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名前 期間 試合数 備考
イングランドの旗 フレッド・ペントランド 1920年 2101アントワープオリンピックのみの指揮
フランスの旗 ガストン・バロー 1936年 - 1945年 124 39 13 72
フランスの旗 ガブリエル・アノ 1945年 - 1949年 21 10 2 9
フランスの旗 ポール・バロン 1949年 - 1953年 30 13 7 10
フランスの旗 ピエール・ピバロ 1953年 - 1954年 4 1 1 2
フランスの旗 ジュール・ビゴー 1954年 - 1956年 11 5 3 3
フランスの旗 アルベール・バトー 1956年 - 1960年 36 18 9 9 1958 FIFAワールドカップ3位
フランスの旗 アンリ・ゲラン 1960年 - 1964年 22 4 6 12
スペインの旗 ホセ・アリバス 1962年 - 1966年 15 5 4 6
フランスの旗ジャン・スネラ 1966年 4 2 0 2
フランスの旗 ジュスト・フォンテーヌ 1967年 2 0 0 2
フランスの旗 ルイ・デュゴーグ 1967年 - 1968年 9 2 3 4
フランスの旗 ジョルジュ・ブローニュ 1969年 - 1973年 31 15 5 11
ルーマニアの旗 シュテファン・コヴァチ 1973年 - 1975年 15 6 4 5
フランスの旗 ミシェル・イダルゴ 1975年 - 1984年 75 41 16 18 UEFA欧州選手権1984優勝
フランスの旗 アンリ・ミシェル 1984年 - 1988年 36 16 12 8 1986 FIFAワールドカップ3位
フランスの旗 ミシェル・プラティニ 1988年 - 1992年 29 16 8 5
フランスの旗 ジェラール・ウリエ 1992年 - 1993年 12 7 1 4
フランスの旗 エメ・ジャケ 1994年 - 1998年 53 34 16 3 1998 FIFAワールドカップ優勝
フランスの旗 ロジェ・ルメール 1998年 - 2002年 53 34 11 8 UEFAEURO2000優勝
フランスの旗 ジャック・サンティニ 2002年 - 2004年 28 22 4 2
フランスの旗 レイモン・ドメネク 2004年 - 2010年 79 41 24 14 2006 FIFAワールドカップ準優勝
フランスの旗 ローラン・ブラン 2010年 - 2012年 27 16 7 4
フランスの旗 ディディエ・デシャン 2012年 - 177 114 35 28 UEFAEURO2016準優勝

2018 FIFAワールドカップ優勝   2022 FIFAワールドカップ準優勝 UEFAネーションズリーグ2020-21優勝

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歴代選手

現招集メンバー

2022年9月、UEFAネーションズリーグオーストリア戦とデンマーク戦に招集されたメンバー[18]

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No. Pos. 選手名 生年月日(年齢) 出場数 ゴール 在籍クラブ
1 GK アルバン・ラフォン (1999-01-23) 1999年1月23日(27歳) 0 0 フランスの旗 ナント
2 DF ベンジャマン・パヴァール (1996-03-28) 1996年3月28日(30歳) 45 2 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン
3 DF ウィリアン・サリバ (2001-03-24) 2001年3月24日(25歳) 5 0 イングランドの旗 アーセナル
4 DF ラファエル・ヴァラン キャプテン (1993-04-25) 1993年4月25日(33歳) 86 5 イングランドの旗 マンチェスター・ユナイテッド
5 DF ジュール・クンデ (1998-11-12) 1998年11月12日(27歳) 11 0 スペインの旗 バルセロナ
6 MF エドゥアルド・カマヴィンガ (2002-11-10) 2002年11月10日(23歳) 3 1 スペインの旗 レアル・マドリード
7 FW アントワーヌ・グリーズマン (1991-03-21) 1991年3月21日(35歳) 108 42 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
8 MF オーレリアン・チュアメニ (2000-01-27) 2000年1月27日(26歳) 12 1 スペインの旗 レアル・マドリード
9 FW オリヴィエ・ジルー (1986-09-30) 1986年9月30日(39歳) 112 48 イタリアの旗 ミラン
10 FW キリアン・エムバペ (1998-12-20) 1998年12月20日(27歳) 57 27 フランスの旗 パリ・サンジェルマン
11 FW ウスマン・デンベレ (1997-05-15) 1997年5月15日(29歳) 27 4 スペインの旗 バルセロナ
12 FW クリストファー・エンクンク (1997-11-14) 1997年11月14日(28歳) 6 0 ドイツの旗 ライプツィヒ
13 DF ダヨ・ウパメカノ (1998-10-27) 1998年10月27日(27歳) 6 1 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン
14 MF マテオ・ゲンドゥージ (1999-04-14) 1999年4月14日(27歳) 6 1 フランスの旗 マルセイユ
15 DF ジョナタン・クラウス (1992-09-25) 1992年9月25日(33歳) 4 0 フランスの旗 マルセイユ
16 GK マイク・メニャン (1995-07-03) 1995年7月3日(30歳) 4 0 イタリアの旗 ミラン
17 MF ジョルダン・ヴェレトゥ (1993-03-01) 1993年3月1日(33歳) 5 0 フランスの旗 マルセイユ
18 DF ブノワ・バジアシーレ (2001-03-26) 2001年3月26日(25歳) 0 0 フランスの旗 モナコ
19 MF ユスフ・フォファナ (1999-01-10) 1999年1月10日(27歳) 0 0 フランスの旗 モナコ
20 FW ランダル・コロ・ムアニ (1998-12-05) 1998年12月5日(27歳) 0 0 ドイツの旗 フランクフルト
21 DF フェルランド・メンディ (1995-06-08) 1995年6月8日(31歳) 7 0 スペインの旗 レアル・マドリード
22 DF アドリアン・トリュフェ (2001-01-20) 2001年1月20日(25歳) 0 0 フランスの旗 レンヌ
23 GK アルフォンス・アレオラ (1993-02-27) 1993年2月27日(33歳) 3 0 イングランドの旗 ウェストハム・ユナイテッド
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歴代記録

出場数ランキング

2026年6月20日時点

  水色は現役代表選手
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順位名前出場期間
1ウーゴ・ロリス1452007年 - 2022年
2リリアン・テュラム1421994年 - 2008年
3オリヴィエ・ジルー1372007年 - 2024年
アントワーヌ・グリーズマン2014年 - 2024年
5ティエリ・アンリ1231997年 - 2010年
6マルセル・デサイー1161993年 - 2004年
7ジネディーヌ・ジダン1081994年 - 2006年
8パトリック・ヴィエラ1071997年 - 2009年
9ディディエ・デシャン1031989年 - 2000年
10キリアン・エムバペ992017年 -
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得点数ランキング

2026年6月20日時点

  水色は現役代表選手
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順位名前得点出場期間
1キリアン・エムバペ58992017年 -
2オリヴィエ・ジルー571372011年 - 2024年
3ティエリ・アンリ511231997年 - 2010年
4アントワーヌ・グリーズマン 441372014年 - 2024年
5ミシェル・プラティニ41721976年 - 1986年
6カリム・ベンゼマ37972007年 - 2022年
7ダビド・トレゼゲ34711998年 - 2008年
8ジネディーヌ・ジダン311081994年 - 2006年
9ジュスト・フォンテーヌ30211953年 - 1960年
ジャン=ピエール・パパン541986年 - 1997年
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脚注

関連項目

外部リンク

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