ミハイル・ペトロヴィッチ・クロト
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ロシア、サンクトペテルブルク
ミハイル・ペトロヴィチ・クロト | |
|---|---|
| Михаил Петрович Клодт | |
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自画像 (1890s) | |
| 生誕 |
1835年9月29日 ロシア、サンクトペテルブルク |
| 死没 |
1914年1月20日(78歳没) ロシア、サンクトペテルブルク |
ミハイル・ペトロヴィチ・クロト(ロシア語: Михаил Петрович Клодт, ラテン文字転写: Mikhail Petrovitch Klodt、1835年9月29日 - 1914年1月20日[1])は、ロシアの画家、イラストレーター、舞台美術家である。バルト貴族の出身で彫刻家となったペーター・クロト・フォン・ユルゲンスブルク(Peter Clodt von Jürgensburg: 1805-1867)の息子である。移動派(巡回美術展協会)の創設メンバーの一人で、風俗画などを描いた。
サンクトペテルブルクで生まれた。父親の、ペーター・クロト・フォン・ユルゲンスブルクはバルト貴族「クロト・フォン・ユルゲンスブルク家」出身でサンクトペテルブルクで有名な彫刻家になった人物である。いとこのミハイル・コンスタンティノヴィッチ・クロト(Mikhail Konstantinovich Clodt: 1833-1902)も風景画家として知られている。
1848年から挿絵画家のアレクサンドル・アギン(Alexander Agin)の指導を受けた後、1852年にサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーに入学し、アレクセイ・タラソヴィチ・マルコフのクラスで学び在学中にいくつかの賞を得た[2]。
1857年にはロシアで出版されたアンデルセンの童話の挿絵画家となった。
1857年から1860年の間はパリで活動した。その後いとこのミハイル・コンスタンティノヴィッチ・クロトとフランス各地を旅し、1862年から1865年の間はミュンヘンで活動した。1867年に帝国美術アカデミーからacademicianの称号を受け、1872年にprofessorの称号を受けた。
巡回美術展協会とロシア水彩画家協会(Общества русских акварелистов)の創設メンバーの一人となった。帝国美術振興協会の美術学校で教え(1865–1867年、1875–1913年)[3]、アレクサンドル・フォン・シュティーグリッツの設立した工芸学校の水彩画のクラスでも指導した。1869年から1871年の帝国考古学委員会のタマン半島探検隊の博物画家として働いた。1895年から1914年まではサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館で修復師としても働いた。
1914年にサンクトペテルブルクで亡くなった。