ミルト・シュミット
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| ミルト・シュミット | |
|---|---|
|
Toppsカード (1954年) | |
| 本名 | ミルトン・コンラッド・シュミット |
| 原語名 | Milton Conrad Schmidt |
| 生誕 |
1918年3月5日 キッチナー |
| 死没 |
2017年1月4日(98歳没) ウェストウッド |
| 身長 | 6 ft 0 in (1.83 m) |
| 体重 | 185 lb (84 kg; 13 st 3 lb) |
| ポジション |
センター ディフェンス |
| ショット | 左打ち |
| 所属したチーム | ボストン・ブルーインズ |
| プロ選手期間 |
1936年 – 1942年 1945年 – 1955年 |
| 1961年殿堂入り | |
ミルト・シュミット(英語: Milt Schmidt, 1918年3月5日 - 2017年1月4日)は、カナダ連邦オンタリオ州キッチナー生まれの元プロアイスホッケー選手、コーチ、ゼネラルマネージャー。ポジションはセンター。
ボストン・ブルーインズのフランチャイズ史上、キャプテン、コーチ、ゼネラルマネージャーを務めた唯一の人物であり、チーム関係者から「アルティメット(究極の)・ブルーイン」と称される。
選手
シュミットは、第一次世界大戦勃発後に「ベルリン」の町の名を捨てたドイツ系移民の町であるキッチナーで生まれ育ち、同郷のウッディ・デュマート、ボビー・バウアーと共にジュニア時代を過ごした。先にボストン・ブルーインズと契約していたバウアーは、コーチのアート・ロスにシュミットを推薦し、トレーニングキャンプで好印象を残したシュミットは、18歳でブルーインズと契約した。
得点力の高いデュマート、滑らかなスケートを持つバウアー、力強いシュミットの3人は共通のドイツ系の血統から「クラウト・ライン」と名付けられ、1939年にはエディ・ショア、ディット・クラッパー、フランク・ブリムセック、ビル・カウリーらと共に、ブルーインズにとって10年ぶりのスタンレーカップ優勝に貢献した。翌シーズンにはシュミットがアシスト(30)とポイント(52)でリーグトップとなり、ラインメイトはポイントランキングで2位と3位に入る史上初の快挙を成し遂げた。
1941年、シュミットはプレーオフでMVP級の活躍を見せ、ブルーインズはデトロイト・レッドウィングスをスイープして、3度目のスタンレーカップ優勝を果たした。
その後、第二次世界大戦が始まり、クラウト・ラインの3人はカナダ王立空軍 (RCAF) に入隊し、ヨーロッパへ向かう前に軍のアイスホッケーチームに加わり、1942年にカナダ最高のシニアアマチュアチームとしてアランカップを獲得し、シュミットは13試合で23ポイントと活躍をした。
ブルーインズ王朝を築けたかも知れない3シーズンを戦争で失い、1945-46シーズンに27歳でブルーインズに復帰し、プレーオフでは10試合8ポイントでブルーインズをスタンレーカップ決勝に導き、翌シーズンにはキャリアハイの27ゴール62ポイントを記録した。1950-51シーズン、32歳でブルーインズのキャプテンを務め、22ゴール39アシストでシーズンを終え、唯一のハート記念賞を受賞した。最後の3年間はディフェンスとしてキャリアを延長し、1954-55シーズンの途中に36歳で引退した。
コーチ
間を置くことなく、ブルーインズのヘッドコーチに就任し、1960-61シーズンを除き、11シーズン2期にわたりブルーインズのコーチを務め、1957年と1958年にチームをスタンレーカップ決勝に導いた。
ゼネラルマネージャー
1966年にブルーインズのゼネラルマネージャーに就任した。同年に18歳のボビー・オアがデビューし、約7か月後の1967年5月15日、シカゴ・ブラックホークスからフィル・エスポジト、ケン・ホッジ、フレッド・スタンフィールドをトレードで獲得し、彼らはブルーインズが1970年と1972年にスタンレーカップを獲得する原動力となった。これは1941年以来のチーム初優勝であった。
ワシントン・キャピタルズの初代ゼネラルマネージャーでもあり、1974-75シーズンに8勝67敗5分というNHLワースト記録を樹立した。1974-75シーズン終盤にコーチに就任した。キャピタルズは、1975-76シーズン終了後にエキシビションゲームを初めて日本で開催したが、シュミットはすでにチームを離れていたため、来日することはなかった。[1][2]
