ミーナーブ

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ミーナーブの街並み。
ミーナーブの木曜市の様子。2019年撮影。女性が着用している板状の面覆いは、この地方独特のニカーブというヒジャーブ(ヴェール)の一種。湾岸諸国やアラブで「ニカーブ」と呼ばれているものはイランでは「ルーバンデ」と呼ばれている。
ミーナーブの中心、ミーナーブ川沿いにある城址。ビービーミーヌーとヘザーレ姫という姉妹が建てたという伝説がある。
ミーナーブ特産のマンゴーとジャスミンの花を持って街を練り歩く2025年9月の収穫祭の様子。
マンゴーとジャスミンの花の収穫祭の様子。女性たちがニカーブを着用している。

ミーナーブペルシア語: میناب, ラテン文字転写: Mīnāb)は、イランの南部、ホルモズガーン州にある町[1]ペルシャ湾の岸から25キロメートル内陸に行ったところにあり、町の中心部の標高は海抜16メートルである[1]。町の名称は、ペルシャ語で「水の間」を意味する میان‌آب / miyān āb に基づくとも、町の中心にある「ビービーミーヌーの城」に由来するとも言われている[1]

ミーナーブは2022年現在、行政上はオスターネ・ホルモズガーン内に属し、周辺の村々(デヘ)171箇村と合わせ「シャフレスターネ・ミーナーブ」を構成している(「オスターン」「シャフレスターン」に日本語の定訳はないが、便宜上「州」「郡」の用語が使われることが多い)[1][2]。町の気候は温暖・湿潤である[1][2]。年間の平均気温は冬で摂氏6度、夏で48度である[1]。平均の年間降水量は253ミリメートルでありバンダレ・アッバースより若干(25ミリメートルほど)多い[1]。そのため19世紀のミーナーブはバンダレ・アッバースやケシュムの富裕層が過酷な夏の暑さをしのぎに来る避暑地にもなっていた[1]。町の中心をミーナーブ川ペルシア語版が流れ、町の水資源はこの川に依存している[2]。主な農業産品は、ナツメヤシ、穀物、かんきつ類である[2]

町の名前がペルシャ語史料にはじめて登場するのは19世紀である[1]。いわゆる「長い19世紀」のインド洋においては新式火器の交易が盛んになった[3]。小澤 (2016) によると、19世紀末、ガージャール朝やイギリスが武器交易の規制を強めた結果、『ペルシャ湾地誌』といった当時のイギリス帝国の報告書類では、ミーナーブ川下流のミーナーブ湾の名前が、バンダレ・アッバースのような主要港から接近困難で監視の目の行き届かない交易拠点として、初めてのその名前が記録されるようになる[3]

もっとも、ミーナーブで人類が活動し始めた時期は極めて古く、いまから20から25万年前の中期旧石器時代の石器が1970年代の発掘調査でミーナーブから出土している[1]。3世紀から7世紀ごろまでの古代の陶器片も出土している[1]。さらに東アジアの陶磁器の破片の出土は、この地域が東アジアや東南アジアと交易があったことを示す[1]。これらの考古学的知見によれば、ミーナーブは歴史的に継続してホルモズを中心とした地方政権(ホルモズ王国)と密接であったということである[1]ホルモズ島ケシュム島をポルトガルが支配した時代、ミーナーブはペルシャ側史料に「外部領土」と記載されることもあり、ホルモズ島がオスマン帝国の海賊の攻撃を受けた際にはポルトガル人やイラン人家族の避難先として機能した[1]

17-18世紀のミーナーブはサファヴィー朝アフガン人政権ナーデル・シャー政権などが統治するが、18世紀中葉には大規模な略奪を受け、在地農業と商業が壊滅する危機を経験した[1]ナーデル・シャーは一時的にオランダにホルモズやミーナーブの統治権を与えるなどしたが、オランダ統治は難航した[1]ザンド朝政権下でミーナーブはようやく落ち着いたが、18世紀末、オマーンのマスカト政権(ブーサイード朝)がホルモズやミーナーブの支配権を得る[1][3]。19世紀中葉にはガージャール朝がオマーンの勢力をイラン本土側から退出させ、以後、ミーナーブはイラン領である[1][3]

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