ホルモズガーン州
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| ホルモズガーン州 استان هرمزگان | |
|---|---|
| 位置 | |
| 統計 | |
| 州都: • 測地系: |
バンダル・アッバース • 北緯27度11分18秒 東経56度16分36秒 / 北緯27.1884度 東経56.2768度 |
| 面積: | 70,669 km² |
| 人口(2016年) • 人口密度: |
1,776,415人 • 25.1人/km² |
| シャフレスターン数 | 11 |
| タイムゾーン: | UTC+3:30 |
| 主な言語: | バルーチ語(ジャースクおよびミーナーブで) |
| ISO 3166-2:IR: | IR-23 |
ホルモズガーン州(ホルモズガーンしゅう、ペルシア語: استان هرمزگان Ostān-e Hormozgān)はイランの州(オスターン)。イラン南部にあって、ペルシア湾をはさんでオマーンと相対する。州都はバンダレ・アッバース。面積は68,475km²。ペルシア湾上に14の島があり、海岸線は1000kmにおよぶ。
州内の主要な都市はバンダレ・アッバース、バンダレ・レンゲ、ミーナーブ、バンダレ・チャーラク、ジャースク、バスタク、バンダレ・ハーミール、フィーンである。 管下に21郡(シャフレスターン)、69地域行政区(バフシュ)、2046村(デフ)がある。人口は177万6415人(2016年国勢調査)[1]。
紀元前4世紀にアレクサンドロス大王配下の武将ネアルコスがインダス川河口から海路でスーサへ戻る途上、ホルモズガーン州の沿岸を航海しており、そのときの見聞がアッリアノスやプリニウスの引用により残されている[2][3]。ネアルコスによるとゲシュム島とラーヴァーン島には人が定住しており、アッリアノスによるとこれらの島では真珠採りなどが行われていたとのことである[3]。イラン本土側に関しては、2世紀のプトレマイオスや4世紀のアンミアヌス・マルケリヌスによると、現代のミーナーブの近くに貿易の中心地があり、ネアルコスも船団をここで停泊させたとみられる[4]。この貿易の中心地がのちの時代には「ホルモズ」と呼ばれ[4]、ホルモズガーン州の名前の由来にもなっている。マルケリヌスによると、ホルモズはサーサーン朝の祖アルダシール1世の創建によるとのことであるが、おそらくもっと古い時代からホルモズは存在したとみられる[4]。
以来、特に紀元前241年から紀元前211年にかけて繁栄したとされ、イスラーム期に入っても交易・商業上の拠点として成長したとされる。
「マルコ・ポーロ」は1272年と1293年にホルムズを訪れ、イランの宝石、インドシナの象牙、絹、バハレーンの真珠などのホルモズ港バーザールにおける幅広い取引を記録している。
1497年、ポルトガル王国のヴァスコ・ダ・ガマ率いるヨーロッパ勢力が当地にはじめて上陸した。1506年にはアルブケルケが7隻の戦艦を率い、ポルトガルがマムルーク朝エジプト、ヴェネツィア共和国からの防衛を名目として、侵攻した。ホルモズ港は以降、ペルシア湾商業利権における戦略的要港とされるようになる。
ポルトガルの侵攻に対して、サファヴィー朝のイスマーイール1世は西方でのオスマン朝との対抗に忙殺され、有効な防衛策をとることができなかった。最終的にはアッバース1世がイギリスと提携してポルトガルをペルシア湾から追い落とすことになる。これにより1622年ホルムズ島にあった港湾を本土対岸に移し新たな都市をバンダレ・アッバース(「アッバースの港」の意)と命名した。アッバース1世の名によるものである。
英国は、一方で、この地域に対する影響力をオランダと争った。オランダはゲシュム島を襲い、さらにはシャー・アッバース1世の治世末期、バンダレ・アッバースに戦艦を派遣している。サファヴィー朝はこの攻撃を防げなかったが、オランダとイギリスの関係は悪化し、地域における軍事的緊張が高まることになり、1753年オランダは最終的に拠点をハールク島へと移す挙に出た。しかし、1766年ハールク島に近いBandar Rigのアミール、ミール・マフナー(Mir Mahanna)が現地でオランダを撃退。英国は脅威となる可能性を警戒し、ペルシア湾岸に巨大統一勢力が出現しないように、地域的自治を進展させる政策をとる。
1838年Siege of Heratで、ガージャール朝に勝利した英国がこの地域の覇権を握り、イギリス東インド会社を通じてペルシア湾を支配することになった(グレート・ゲーム)。
