ムクシ

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ムクシは、明朝後期の建州女直で、アイシン・ギョロ氏太祖ヌルハチの第四女。

はじめウラ国主ベイレブジャンタイに降嫁したが、ヌルハチによる征討でウラが滅亡すると、開国五大臣のひとりエイドゥに再嫁し、エイドゥ死後はその第八子・圖爾格に再々嫁した。子に康熙帝の輔政四大臣のひとりエビルン、孫娘に康熙帝孝昭仁皇后

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  mukusi
出身氏族
アイシン・ギョロ氏
名字称諡
漢字音写
  • 木庫石(清)[1]
  • 穆庫什(清)[2]
  • 穆庫西(清)?
出生死歿
出生年 萬曆23年1596
死歿年 順治16年1659
親族姻戚
ヌルハチ
嘉穆瑚覺羅氏 (庶妃)
夫① ブジャンタイ
夫② エイドゥ
エビルン
孫女 孝昭仁皇后
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略歴

初婚と離縁

萬曆35年1608烏碣岩での戦役ウラを大敗させたヌルハチは、さらなる打撃を与えようと翌36年1608、長子チュイェンらを派遣し、難攻不落と言われたウラの要塞、イハン山城を攻略させた。驚懼したウラ国主ベイレブジャンタイはヌルハチに媾和を求め、姻戚関係の強化のためにヌルハチの娘を妻りたいとせがんだ。ブジャンタイはこの頃までに、エシタイ・オンジェ姉妹 (ともにシュルハチ女) をヌルハチから妻として与えられていたが、この時、ブジャンタイ三人目の妻として白羽の矢が立ったのがムクシであった[2][注 1]

しかしブジャンタイはイェヘとヌルハチとの間で叛服常なく、ヌルハチへの反感は妻へも向けられた。萬曆40年1612にはイェヘ西城の故主ブジャイの女 (明に所謂「北關老女」) を巡って二人目の妻オンジェに鏑矢を当て、怒ったヌルハチの親征により諸要塞を潰された。しかしそれに懲りず翌41年1613にはオンジェとムクシを監禁しようとした為、またもヌルハチの親征により今度はウラ居城が制圧され、将兵を失った末にイェヘへ亡命した。国主を失ったウラ領民がことごとくヌルハチに帰順し、滿洲マンジュに編入されたことで、ウラは滅亡した。

再婚と三婚

ニョフル氏エイドゥ (開国五大臣の一人) はウラ討滅戦の後、ヌルハチから「和碩公主」を妻として与えられた[3][4]。この「和碩公主」がすなわちムクシとされる。ムクシはウラ滅亡に伴い、エシタイ・オンジェ姉妹とともに滿洲マンジュに帰還し、エビルン (康熙帝の輔政四大臣の一) を含む二子一女をもうけた[5]。エイドゥの逝去後はエイドゥ第八子・圖爾格に再嫁したとされる[6]。これは当時の満洲族に遺っていた「父妻子婚」、すなわち孀となった女性が夫の子に再嫁するという風習に従ったものである。

娘の懐妊詐欺騒動

崇德2年1637旧暦5月、ムクシとエイドゥの女はチュイェンの子・尼堪に嫁いだ。側室をとらせまいと、他人の子を自分の子と偽ったのが発覚し、ムクシの娘を含む関係者六名が死を賜わった。ムクシは死罪こそ免れたものの、和碩公主の地位を剥奪され、三夫・圖爾格との離縁を迫られ、里にひきとられて同父母兄・巴布泰と同父母弟・巴布海の扶養を受けた。圖爾格も死罪を免れたが、世職を剥奪された。エビルンは母ムクシと死を賜わった妹を庇い、和碩鄭親王に対し承政を告訴したために、襲承した昂邦章京の世職を解かれた。尼堪は無罪を言い渡された。[7]

子女

  • 名不詳:エイドゥ女。尼堪貝子妻。[5]

脚註

文献

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