ムスチスラフ・ミハイロヴィチ
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伝統的に、ムスチスラフはチェルニゴフ公ミハイルの子であり、兄弟の中では年少者であったとみなされる。系譜史料によれば、ムスチスラフは、父ミハイルが1246年にジョチ・ウルスに殺害された後、コゼリスク、エレツ、モサリスク、ズヴェニゴロド、ボルホフの諸都市を含むカラチェフ公国(首都カラチェフ)を受領したとされている[1]。ただし、この系譜史料に疑問を呈する研究者も多くあり、それは、ルーシの年代記(レートピシ)にはチェルニゴフ公ミハイルの子はロスチスラフしか言及されていないこと、成立の古い年代記にはムスチスラフ自体に関する(当然その父称や公位についても)言及がみられないことによる[3]。M.ブィチコワは、ムスチスラフをミハイルの子として言及する史料は、1530年代に成立した『スルツク年代記(ru)』(ムスチスラフは次男)が最初であると指摘している[4]。
H.バウムガルテン(ru)は、ムスチスラフはチェルニゴフ公家(オレグ家)のいずれかの人物の子であり、その仮説の一つとして、『リューベチ・シノディク』に名のあるミハイル・ドミトレヴィチの子と推測している[注 2]。